最後の狼ー二瓶鉄造とウイルクの「乱」ー

 【0】はじめに

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 これまで細々とツイッター上(イギーさん (@BlackSabbthVol4) | Twitter)でゴールデンカムイについてつぶやいてきたことを、曲がりなりにも整えた長文の形にしようと思い立ちました。その切り口として最もふさわしいのは誰かと考えた時、やはり二甁鉄造が自分の抱えている問題意識に最も近い場所にいるんだろうと思い、今回の論考の題材に取り上げます。


 彼は刺青の脱獄囚の中でも傑出した存在で、読者にも大きな印象を残しているわけですが、それは自然に対する愛着だとか男気とかの点において傑出しているだけではなく、彼が明白に国家に対する反逆を自分の行動原理と位置づけているからではないかというのが、私の視座であり論点です。「猟師の魂」とは謀反、古い言葉で言えば「乱」の心とでも言うべきものなのです。


 飛躍した結論から入ってしまったので分かりづらいかもしれませんが、言い換えますと、二甁は個性豊かな刺青の囚人の系列ではなく、鶴見や土方、のっぺらぼう=ウイルク、キロランケというクーデター首謀者たちと同じ系列に属していると考えたい。国家の下で支配されることを好まず、独立を求めるという気風が似通っていると言えば、何となくおわかりいただけるでしょうか。

  特に、ウイルク(ポーランド語で「狼」という意味だそうですね)と二甁の間には明白な相似を感じます。二人が優秀な狩人であるということがまずあるでしょうが、やはり国家に反逆する謀反人の陰りを共有している。推定だけを言ってもしょうがありませんから、実際に両者の来歴をたどりつつ(これも推定にすぎませんが)、彼らがどのようにして「国家」というものに直面し、反目するに至ったかを考え、相似をあぶり出してみようと思います。


 【1】近代との対面

 二甁は永倉よりは年下とありますから、60歳くらいと考えるのが妥当でしょう。舞台が明治末(1906、7年)なので、明治維新は青年時代の出来事と思われます。出生地・生活地域は分かりませんが、暫定的に北海道としておきましょうか。年代的にはウイルクが50歳くらいだと思います(キロランケよりやや上か)。


 二甁はもしかすると、戊辰戦争の最終戦である箱館戦争に若くして参加したかもしれません。土方と肩を並べて戦ったのかもしれない。ただ、あくまで想像ですから、不要な仮定を付け加えないよう、戦乱とは無縁に山の中で暮らしていたと考えるのが無難でしょう。彼の来歴から確かなことは一つ、壮年期の彼が息子を日清戦争(1894年)に取られたということ。ここにおいて、初めて彼は国家権力というものに直面したと言えないでしょうか。


 江戸の末期に生まれた彼が少年から青年時代に見聞きした戦争というものは、旧時代の内戦、すなわち「乱」でした。現代の我々がイメージする国家間の戦争とはかなり隔たりがある。戊辰戦争は徳川家に対する薩長の政治的権力奪取ですし、西南戦争も政治闘争に敗れた西郷の巻き返し作戦と捉えられます。


 あくまで誰が政治のハンドルを握るかというヘゲモニー闘争であって、少なくとも民衆レベルではどちらが勝とうがどうでも良かった。せいぜいお殿様や庄屋が代わるくらいのもので、年貢の取り立てがどうなるかのほうが重要だった。これは日本の民衆において長らく共有されてきた戦乱への認識だとも思います。


 こういう民衆の視点で見ると明治政府と日清戦争というのは、昔なじみの「おかみ」と「いくさ」とは様相が全く異なります。これまで影も形もなかった日本という統一国家がいきなり現れてお前たちは国民だと号令し、一律の地租改正で重税を課し、清という海の向こうの大国への侵略を始めるのです。


 二甁は、これまで通りの内乱の感覚がまだ根強く残っていた。戦争とは自分たちの土地を荒らす、「おかみ」の小ぜり合いくらいの認識だったのではないかと思います。武士であれば戦うのは義務ですが、狩りを生業にしていた二甁には無関係な話。それでも猟師の子弟まで狩り出す。こんなことは二甁も思いも寄らない事態だったと思います。


 似たような事態は、すでにウイルクにも起こっていた。1875年の樺太・千島交換条約がそれです。日清戦争の20年も前の話になりますが、千島列島を日本領とする代わり、樺太全島をロシア領へとすげ替えるという乱暴な取り決めです。その中で樺太アイヌであったウイルクは村の人たちが「ロシア」と「日本」のどちらかを選べと強制され、日本を選んだ者たちは北海道へと移住させられた。国家によって民族が分断されるのを目の当たりにした訳です。


 形こそ違いますが、二甁の場合と同じく、おそらくは唐突に現れた「近代国家」が突きつける命令によって、初めて国民という概念に直面した。そして、国家と国民という概念が、二甁にとっては息子の戦死、ウイルクにとっては村落共同体の断裂を招き、猛烈な反発をお互いに抱かせることになった。そう考えると両人の位置づけがはっきりしてきます。近代的な国民国家は彼らにとって、誕生した当初から明白な「敵」だったのです。


 【2】「乱」への固執

 二甁とウイルクは両方とも、生活の基盤となる家族と共同体を国家によってバラバラにされてしまいました。彼らに残された選択肢は、服従か反乱かの二つに一つです。ウイルクが選択したのは後者でした。彼は近代化を推し進める帝政ロシアに対抗するため「人民の意思」に参加し、1881年には、ロシア皇帝アレクサンドル2世の爆殺というテロリズム、すなわちヘゲモニー闘争という古い形の「乱」を主導するわけです。


 二甁がたどった筋道は真逆のようにも見えます。息子を失い、おそらくはこのタイミングで妻と娘と離縁、山にこもって熊撃ちを続ける、屈従の道を選んでしまった、と。しかし、私は彼の心のうちにはテロリズムに走ったウイルクと同じ「乱」の気が充ち満ちていたのだ、そう思えてなりません。


 二甁が獲物を横取りしようとした強盗を、官憲の目の前で絞め殺してしまうのはなぜか。彼は「ヒグマより獲物に執着する」と自身を獣になぞらえます。獣の掟は家族を失った二甁が長らく親しんできた最後のよりどころだった。間接的にではありますが、強盗の絞殺は「乱」に身を投じるきっかけ、近代的な国家を象徴する官憲に対しての開戦の狼煙だったと考えられはしないでしょうか。


 しかし獣の掟は「人間の掟」、近代国家の法治システムの前にあえなく膝を屈した。彼は殺人罪で召し捕られる。これは国家に対する二度目の敗北だったと思うのです。この経緯はウイルクも同じです。自分の生きる共同体を分断されたことへの怒りが彼の中にふつふつと煮えたぎり、皇帝暗殺という「乱」への道を取らせた。しかし、すでに成立してしまっていた近代的国家はびくともせず、彼を下手人として極東へと追い詰めていく。彼の心情を察するに、敗北というほかはないように思います。ウイルクも二甁と同じく、二度の敗北を喫したのです。


 アレクサンドル2世暗殺と強盗絞殺、ベクトルこそ違いますが、この「乱」の首謀と失敗が両者の行為を結び合わせる絆です。近代的国家に反逆し、二度の敗北を喫した古風な「乱」のプレーヤーである両人が、ヨーロッパが生み出した最新の統治システムである監獄、それも極東アジアの果ての網走監獄で巡り会ったのは、必然的なものだったのと思います。

 【3】最後の狼と猟師の魂

 網走監獄で邂逅した二人の謀反人、二甁とウイルクの間でどんな言葉が交わされたかは想像するほかありませんから、明確には言葉にできない。たぶん二甁が一方的に狩りの話とかをしていたんじゃないかとは思いますが、これも不要な仮定ですね。


 ただ二人を結び合わせる絆は「乱」の他に、もう一つあるのです。それはレタラ、最後のエゾオオカミです。ウイルクの娘、アシリパの最高の相棒であり、脱獄した二甁が欲する最高の獲物でもありました。3巻での二甁の発言を振り返りましょう。 

「鹿の大量死でエサので無くなった狼は、家畜を襲うようになり、人間の罠によって絶滅するまで駆除された。その知恵比べにも負けず生き残った最後の狼。狼の個性とオレの個性の勝負。猟師の魂が勃起する!!」

  二甁が最後の狼に固執する理由がつぶさに語られています。かつては本州では「大神」と呼ばれた山で最も気高い獣―ホロケゥカムイ―が、近代的農業と都市発展の邪魔者として毒餌で駆除されていく。そこに近代国家に息子と、獣としての自分を奪われたプロセスを見いだした。つまり二瓶は最後の狼の中に、権力に反抗する自分自身を重ねたのです。


 二甁の「猟師の魂」に対する説明はその後もなされます。

 「山でに死にたいから脱獄した。勝負の果てに獣たちが俺の体を食い荒らし、糞となってバラ蒔かれ山の一部となる。理想的な最後だ」

 おそらくこの発言に偽りはない。ただ語られざる裏を読む必要がある。こうしたエコロジー的な発想の裏には、そのエコロジーを脅かす「近代国家」に対する絶えざる反乱が煮えたぎっていると、私は捉えます。お前はまだ戦えるのか、息子も妻も、娘も失って、近代国家とやらの前に膝を屈した俺に生きる資格があるのかという自問自答、すなわち自分自身に対する「乱」を二甁はずっと繰り返してきた。これこそがレタラとの戦いに二甁を導いた動機なのだ、そう私は位置づけたいのです。

 

 近代に追われた男は、近代に追われた獣に、最後の狼に自己を重ねた。敗北し続ける弱い自分自身を殺さなければ、前には進めないという強迫観念が彼をレタラ狩りに駆り立た最大のモチベーションだった、そう考えると「猟師の魂」の裏が読めます。それは彼にとって最後の「乱」だったのです。


 一方で、ウイルクがレタラをどのように捉えていたか、少し考えてみましょう。母親と死別した狼の子どもを、なぜウイルクが拾い、アシリパと一緒に育てたのか、という問いが残りますね。


 自然の獣なんだから、当然いつかは自然に帰る。アシリパにとっては兄弟を失わせる、つらい思いをさせるだけです。でもウイルクはレタラを放ってはおけなかった。やはり家族や村と引き離された自己を、最後の狼の中に投影していたのではないかと勘ぐってしまいます。ウイルクは自らの「乱」を最後の狼であるレタラに託した。近代国家への反抗を次代に引き継ごうとした、そう考えるのは邪推でしょうか?


 反抗の末、網走監獄に投じられたウイルクは、刺青を彫る二甁の背中から、自分の中でくすぶっていた「乱」の燃えさし、絶えざる反抗の精神としての「猟師の魂」を感じ取ったのではないでしょうか?自分と同じ「乱」の血脈を体中にたぎらせる二甁を、自分自身の写し身であるレタラに会わせてみたいと、ウイルクは考えたのではないか、そう感じてしまうのです。


 【4】狼の最後、回復する家族

 脱獄した二甁は、ウイルク、そして自分自身の分身であるレタラとの戦いに命を賭けます。ウイルクが二甁に何と言ったかは語られざるところではありますが、二甁はウイルクの意思を察したはずです。反抗、そして「乱」、自らが殉じた「猟師の魂」を貫いてみせよ、そういう無言のメッセージを肌に刺さる針を通して感じ取ったからこそ、二甁はレタラに固執する。両者のつながりは、一層強固なものとなります。


 しかし二甁は脱獄して谷垣と出会ってしまう。これは決定的な転回になりました。彼が失った息子、近代的な国家に強制され、戦地に送り出してしまった自分の分身が、今一度二甁の元に舞い戻って来たのです。


 この時点で二甁とレタラとの戦いは、自分自身を乗り越えるための戦いではなくなってしまった。二甁自身、意識せざるところだったでしょうが、彼の戦いは「乱」から、息子の魂を呼び返すという宗教的位相へと形を変えた、というのが私の考えです。


 3、4巻での二甁の描写は、ほとんど祈りに近いとさえ思います。彼は身を投げ出す。襲いかかるヒグマの前に、銃を構える谷垣の前に、襲い来るレタラの前に、ありのままの「猟師の魂」をさらけ出します。それはもはや「個性と個性の勝負」などではありません。勝ち負けはどうでも良い、「乱」に殉じた自分、近代に押しやられた狼の姿を見よ、という殉教者の意思さえ感じられるように思うのです。


 二甁の戦いからは何か悠然とした心の落ち着きが感じられる。二甁の最後の「乱」はレタラとの勝負ではなく、むしろ、その前の谷垣との会話だったからです。

「『コレヨリノチノ、ヨニウマレテ、ヨイオトキケ』。熊を成仏させるために引導を渡すマタギの唱え言葉だ。あの戦争で殺した相手には一度も唱えることはなかった」

 この言葉を聞いた二甁が何を感じたか、それは12巻のキラウシの回想の中で、二甁が語る死んだ息子のエピソードが代わりに語ってくれます。

 

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「俺には子供がたくさんいるが息子はひとりだけでね。これはその息子が日清戦争で使っていた銃だ…。届けてくれた息子の戦友が『この銃床の傷は息子さんが敵を撃つたびに刻んでいた』と…」
 「殺した責任を背負い込むような甘ったれは、兵士になんぞならないで俺と熊撃ちをしていれば良かったんだ」 


 たぶん二甁は、息子を引き留められなかったことに、おおきな罪の意識を感じているのです。それこそが彼が「乱」を首謀した動機であり、彼を山に一人こもらせ、自問自答を繰り返させた動機であると言っても過言ではないと思います。傷ついた彼の前に、戦争で傷を負いながらも自然の中で癒やされつつある若者が現れた。二甁は谷垣にこう諭します。

 

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 「…お前にとって『狼狩り』は口実なのだ。軍にも故郷にも戻れず、お前の猟師魂は北海道の森を彷徨っている。谷垣よ狼を獲ったら毛皮を手土産に故郷へ帰れ」 

 これは二甁にとって、引き留めることのできなかった息子との対話、最後の賭けだった。近代的国家と昔ながらの生活とどちらを選ぶのか、問いかけている、自問自答の繰り返しでもあります。谷垣が軍帽をたき火の中に投げ入れたことをもって二甁は賭けに勝った、そして二甁の「乱」は完全に終焉したのだと、私は捉えます。遠い戦地で亡くなった息子の魂が帰ってきた以上、もはや彼に戦う動機は残ってはいませんでした。


 結末は二甁の死で終わりますが、勝敗はどうでも良かった理由がおわかりになるでしょう。レタラが妻に助けられたという事実が二甁をさらに安堵させます。レタラは「乱」ではなく、自分と家族のために戦っていたという当たり前の事実に二甁はあらためて気付かされる。絶滅したはずの狼が、近代に奪われてしまった家庭を守っている。二甁は自らの祈りを成就させ、終わりのない「乱」を終えることができたからこそ「だが満足だ」と言えるのです。


 立会人として、息子である谷垣がいたということは何より重要なことと思います。稿を改めて書きたいとは思いますが、谷垣は「猟師の魂」を「乱」ではなく、フチ―チカパシ―インカラマッという新しい家族の中で捉え直す。二甁の生きられなかった人生を再建する。この流れはゴールデンカムイという物語全体を通じて出色のエピソード群だと感じています。

 生き延び、生きる糧を得るための猟、その原点に立ち返る。国家もヘゲモニー闘争もなく、過去に自分が属していたユートピアとしての共同体が、死にゆく二甁の眼前に未来としてよみがえった。そう捉えれば、二甁の死はまんざら無慈悲な最後ではなかったのだと、思い直すことができるはずです。 


 【5】「乱」のおわりに

 ウイルクは網走監獄の中で不意に頭を打ち抜かれて死んでしまいます。二甁の大往生とは打って変わって、殺伐とした末期です。でも、その直前に彼と話したのはアシリパに託したマキリを持ったシサムでした。これは二甁が最後に谷垣と出会ったこととパラレルな関係にあると思います。


 ウイルクは囚人に刺青を施していた時、「乱」に散る二甁の、そして自分自身の無慈悲な最後を思い描いていたでしょう。でも違うのです。ウイルクの前に立ちはだかったのは、「チタタプしてヒンナヒンナしてほしいんだよ」と、娘であるアシリパの将来の平穏を祈る若者でした。精神的な息子として杉元が目の前に現れたのです。


 「乱」としての「猟師の魂」はウイルク=レタラ=二甁の間で潰えた幻想でした。でも最後にジョーカーをウイルクは残していた。アシリパ、彼女もまた「猟師の魂」を継ぎ、変奏する者だったのではないか。ウイルクは、杉元の中に自分自身がこだわった「乱」ではなく、全く新しくも懐かしい「猟師の魂」を引き継ぐアシリパを見いだした。ウイルクが杉元とふれあったときに感じたものは、二甁が谷垣の中に見た平穏に似た何かだった、と私は捉えています。


 最後の方はずいぶんとっちらけですので、アシリパと杉元が「猟師の魂」と「乱」をどう捉えたのかは、稿をあらためて書き直します。ただ一つ言えるのは、彼らの生きている明治末という時代は、国民国家が完成の域に達し、もはや「乱」が成立し得ない状況にあったということです。アシリパも杉元も、「猟師の魂」、そして「乱」を引き継ぎながら、自分たちなりのアレンジを加えていく。その先達として谷垣とインカラマッ、チカパシという新しい家族がいるのです。


 国家や民族を超えて、何か新しいつながりが築かれる、それこそがゴールデンカムイという作品のたどる道筋なのだと言って、この稿を締めたいと思います。お目通しいただいてありがとうございました。いつか谷垣について書きたいですね。(了)