「問い」としての銃弾―尾形百之助についての覚え書き

 【1】嘘つきの語りづらさ 

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 ゴールデンカムイのもう一人の主人公である(と勝手に思ってる)尾形百之助について語るのは難しいな、と思ってずっと言及するのを避けてきました。というのも、彼が語る言葉が、本心から出たものか、それともハッタリなのか、私にはほとんど判別できなかったからです。

 杉元の嘘は簡単に見抜けます。たとえば、鶴見中尉に拷問を受けるシーンで、彼は徹頭徹尾、嘘を突き通すわけですが、読者は彼が「不死身の杉元」であり、金塊を追っていることも、鶴見を信頼していないことからも杉元の嘘が分かる。
 
 キロランケに刺青人皮を持っているのかと聞かれ「無い」と答えたのも読者には明白な嘘です。逆に「チタタプしてヒンナヒンナしてほしいんだよ!」からも分かる通り、願望には正直な男なので真偽の判別がすごく楽です。だから彼の発言は分析しやすい。
 
 尾形の発言はこういう読者にとって自明な描かれた事実や推察とは無関係な、精神的な揺れに関わることが多い。たとえば9巻、樺戸の囚人に乗っ取られたコタンでの一言。

 「俺も別に好きじゃねえぜ。杉元…」


 これは同巻の「お前が好きで助けたわけじゃねえよ。コウモリ野郎」という杉元の言葉に対する遅めの返答ですけど、尾形の杉元への気持ちが嘘なのか本心なのか、検討がつかない
 
 その後の杉元の暴力を見て「おっかねえ男だぜ」と評することや11巻でアイヌの大男を殴り倒すシーンで拍手していることを鑑みるに、彼の暴力性はかなり気に入っていることから考えると、やっぱりそれなりに好きなタイプであって、なんとなく虚勢みたいなもんかなーと推察できる程度です。
 
 このように尾形の感情表現は錯綜しており、そのまま受け入れるわけにはいかないため、他の発言と照らし合わせて初めて本音なのか嘘なのかが明らかになる。そのへんが文章で語るのが難しい一因だと思います。
 
 このように、あんまり信頼できないキャラクターではあるんですが、意外なことに彼は客観的な事実に反するタイプの嘘(杉元の刺青人皮持ってない発言)はつかない。唯一、14巻でアシリパに言った「近づいて確認したがふたりとも死んでいた」だけです。
 
 そう考えると彼より杉元のほうがよっぽど言葉の上では嘘つきなのです。尾形は言葉の嘘ではなく、行動で嘘をつく、つまり裏切りです。これが彼に「嘘つき」の印象を与える最大の理由なんでしょうね。
 
 尾形の発言内容や行動に注目すると、私のように単純な思考の読み手は混乱させられてしまう。だから今回は彼が「何を言っているのか」という意味や内容のレベルではなく、「なぜ・どのように嘘をつくのか」という形式のレベルで彼の発言を読み解いてみたい。それが、私が尾形に近づける唯一の方法です。


 【2】「問い」という銃口

 なんだか寡黙な印象のある尾形ですが、実際はすごくおしゃべりです。皆さん普通に感じてらっしゃるとは思いますが、一応書いてみましょうか。6巻で土方と相対したときのセリフ。 

 「茨戸まで来たのは刺青の噂を偶然耳にしたからなんだがね。床屋の前であんたらをみてすぐにわかった。俺は情報将校である鶴見中尉の下で動いていたからよく知ってるぜ。土方歳三さん。腕の立つ用心棒はいらねえかい」 

 要するに土方に対して「俺を殺すな」って伝えるために、この長ゼリフを口にする。相手に情報を与える代わりに、自分を信頼させ、もっと情報を引き出させようとする一種のテクニックですね。

 その上で「用心棒はいらねえかい」と言うのは疑問形に見せかけて「俺を仲間にしろ」っていう反語。彼は土方に「問い」かけているようでいて、実は答えの決まっている独白を繰り返しているだけです。
 
 情報も持っているし銃の腕も確かだ、だから俺は殺せない、という言葉の言い換えでしかない。彼の「問い」はそもそも自分が知らないものに対する疑問から発されていない。疑問形の形を借りた断定=反語にこそ、彼の発言の本質がある。
 
 もう少し、彼のおしゃべりに付き合いましょうか。9巻の樺戸の囚人に乗っ取られたコタンでの発言。

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 「ムシオンカミって、どういう意味だ?
 おや?もしかして分からんのか?」 

 尾形は目の前にいるのがアイヌになりすました囚人であることを確信している。すでに着物の裾から見えた刺青に気付いているわけですから、見せろと言えば済む話。でもあえて偽物だとは断言せず、疑問形で追い詰めていく。彼にとって疑問形は言葉の形を借りた銃。一種の攻撃的な「行為」、すなわち「尋問」なのです。
 
 しつこいですが、彼の「問い」を突き詰めていきましょう。5巻の谷垣とのやりとりは、最も良い「尋問」ケースです。
 

 「歩けるまで回復したのにどうして鶴見中尉のところへ戻らない?」
 「お前が玉井伍長たちを殺したな?」
 「いま…自分の銃を見たのか?」
 「ああそうだ、ところで…不死身の杉元を見たか?」

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 この辺にしときますが、尾形にとって「問い」が銃と同じくらい信頼のおける脅しの武器であることがおわかりいただけると思います。彼は疑問に対する答えを求めているわけではない。答えは彼の中にすでに存在しているのだから、「問い」は反語に過ぎない。「問い」は相手を追い詰めるための手段、のど元に突きつける銃口なのです。 


 【3】答えのない「問い」 

 「問い」という銃に寄りかかる男、というのが初期の尾形に対する見方です。ここで彼にとって「問い」は銃に、銃は「問い」に置き換えできるもの、と捉えてみましょう。すると彼の銃弾の意味が、「問い」として少し理解出来てくる。15巻でトドを撃つシーン。 

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 「む?」
 「頭に命中したはずなのに…斃せなかった」

 彼は自分の銃の腕を完全に信頼しきっている、だからトドを撃ち殺したと思い込む。でもトドに逃げられそうになってしまう。彼は自分の銃=「問い」への、自身に対する裏切りを感じたからなのか、答えが決まった「問い」ではなく素朴な疑問の言葉を口にしてしまう。

 もはや回答は彼の中に用意されていない。アシリパが頭蓋骨が固いから狙うなという「答え」をさずけます。銃と「問い」をめぐるやりとり。9巻のヤマシギ狩りで尾形が銃を構えたシーンの繰り返しですね。
 

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 「おい!尾形。やめておけ」
 「なんでだよ、食うんだろ?」
 「一羽に当てられたとしても他のが逃げてしまう。ヤマシギは蛇行して飛ぶのでその銃の弾じゃ当てるのは難しい」

  ここでも彼の信頼する銃=「問い」が否定され、素朴な疑問を呈さざるを得なくなる。アシリパはきちんと、彼の抱いた「問い」にアイヌの知識をもって答える。このやりとりは脅しとしての「問い」=銃という決まり切った応酬ではなく、「疑問」と「回答」の本来あるべき姿が表わされているシーンだと思います。
 
 ここで尾形は、アシリパが罠で獲った2羽より多い3羽のヤマシギを射止めてくるわけですが、これは完全に彼女を自らの銃で屈服させようという、ある種のマウンティングです。
 
 どうだ、俺は正しい、俺の銃は嘘をつかない、というシンプルな自己主張が立ち現れる。杉元の「ムキになっちゃってさ…」は彼の精神状態を良く言い表しています。尾形は自分自身=銃=「問い」に対して、嘘はつけない、むき身の自分をさらけ出してしまうんですね。

 ここで、彼の最も重要な「問い」に目を向けてみたい。11巻で、尾形の父である花沢中将に対して発した「問い」です。 

 「愛情のない親が交わって出来る子供は、何かが欠けた人間に育つのですかね?」
 「勇作さんの戦死を聞いたとき…父上は俺を想ったのか…。無視し続けた妾の子が急に愛おしくなったのではないかと…」
 「祝福された道が俺にもあったのか…」

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 これまでさんざん語ってきましたが、この「問い」は彼にとっての銃口、相手を追い詰めるために捏造されたかりそめの疑問です。花沢中将は「呪われろ」という、尾形の思ったとおりの回答を口にする。この瞬間において尾形は勝利している。彼は何かが欠けた人間であり、愛されぬ子であり、祝福されぬ道を歩まざるを得ないという自己認識をすでに持っていて、それを追認して欲しかったからこそ「問い」を突きつけて花沢中将を脅迫するわけですね。

 だから、このやりとりは本質的に尾形の独白です。アシリパに投げかけた疑問、そして未知の知識による答えで描写されたようなやりとり、ムキになる子供じみた行動、という「他者」が存在する前提の会話とは決定的に隔たっていることがおわかりいただけると思います。
 
 彼は決まり切った「問い」という銃口を突きつけ、脅えさせることで、不動の自己を確認したいのですが、そこにアシリパという臆せざる「他者」が現れたとき、動揺してしまう。自己が否定されたとき、ありのままの自分、本来的な疑問としての「問い」を発さざるを得なくなる。

 答えのある「問い」と銃という暴力の互換性について、つたないですが私の考えをおわかりいただけたでしょうか?彼は決まり切ったことを確認するために「問う」、あるいは撃つ。それは彼が彼自身であるために必要なもの、自分自身を守るための「殻」でもあります。だから「問い」という「殻」が破れれば銃にすがる、「殻」も銃もだめになったとき、初めて本質的な疑問としての「問い」がこぼれてくるのです。

 【4】尾形の「沈黙」

 ここで尾形の寡黙なイメージについて考えてみましょう。彼は特定の人物(花沢中将、土方、杉元)に対しては極めて饒舌ですが、これは「殻」をまとい「問い」の形式を取れる相手=敵に限ったことです。素になってしまう相手=味方に対しては、沈黙せざるを得ない。たとえば11巻の白石との会話。

 「だからホラッ、尾形チャン吸ってくれよ」
 「歯茎とかに毒が入ったら……嫌だから」   

 「おなかすいたね」
 「……」 

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 私はこれが案外、尾形の素に近いキャラクターなのではないかと思います。もし杉元や谷垣がマムシに噛まれた当人だったらどれだけいやみったらしく罵倒したか考えてみればいい。しかし白石に対してはただ自分の好き嫌いだけをコメントしてしまう。
 
 後者にいたっては三点リーダーさえ発してないわけですが、別に白石を無視してるわけじゃないと思う。「おなかすいてない?大丈夫」という攻撃でも防御でもない、無防備ないたわりの言葉としての「問い」に対して返す言葉を持たないだけです。
 
 尾形にとって白石は本能的に苦手なタイプ。タヌキを取り逃して杉元とアシリパに役立たず呼ばわりされるシーンでも、唯々諾々と罵倒されていた男。言葉の棘を受け止めることができる男。言葉の「殻」を身にまとい、「問い」返してしまう尾形とは対照的なわけです。
 
 だから二人の間には会話が成立しない。尾形の「問い」は相手の心を傷つけるために発される銃弾なわけで、傷つかない相手には無意味ですし、白石の自然な「問い」に返す言葉にはそもそも持っていないわけで、尾形は白石との会話を無意識に避けちゃう。白石の前では尾形は無力だから、「沈黙」を選ぶというのは言い過ぎでしょうか?
 
 実は白石は他のメンバーよりずっと精神的に大人で、自分に苦手意識を感じている尾形にあえて話しかけようとしないのかもしれません。対立を避け、傷つけ合わない。尾形と距離をもって接する以上、この断絶は目に付かないのですが、この断絶を無視して乗り越えてきてしまうのが、アシリパであり、彼の実弟である花沢勇作少尉だった、と私は捉えています。彼らの前でもまた、素の尾形は「沈黙」せざるを得ない。 

 

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 「尾形ぁ『ヒンナ』は?」
 「ほっときなよ」
 「尾形はいつになったらヒンナできるのかな?好きな食べ物ならヒンナ出来るか?」
 「尾形の好物はなんだ?」

  尾形は「沈黙」しますが、ここから花沢中将自刃の回想へと入っていく。これは「問い」を使えない相手に対する、「答え」を求めて、自分の内面に対し「問い」かけ始めたと捉えてもいいのではないでしょうか。単純に好物の話ですけど、素の尾形にはそういう当たり障りのない会話さえ存在しなかったわけですから。非常にまじめにアシリパの「問い」を受け止めているとも考えられます。

【5】癒着した「殻」

 花沢勇作に関しては本誌に踏み込まざるを得ないので、うろ覚えかつ一面的な読解にはなってしまいます。一応流れだけ押さえておくと、尾形を兄と慕う高貴な血筋の勇作。鶴見は自分たちのクーデターの仲間に引き込もうと画策している。
 
 尾形は「殻」の中に勇作を閉じ込めようと、「男兄弟はいっしょに悪さをするものでしょう」と、例によって「答え」のない意地の悪い「問い」の銃口を突きつけます。しかし、勇作は結果的に席をはずす。これは結構尾形にはこたえたはずです。手の内に入っていたはずの小鳥がスルッと抜け出いていくような感じです。

 最初に書いた、今回の考察では内容には触れず形式的なことしか見ないというマイルールからは外れますが、ちょっと尾形の言う「血」の意味に触れておく必要があるでしょう。たしか尾形は「血に高貴もクソもない」と血統を否定していた。それは自分に対する自負の現れであり、父や弟に対する敵愾心そのものだったはずです。
 
 弟は「血」のつながった部下である兄を敬愛するわけですから、尾形からしてみると見下げた奴のはずです。しかしその見下げた奴を兄弟という「血」でたぶらかそうとした時、勇作はそれを捨て、血のつながらぬ戦友たちを守るために童貞を守り、偶像でいることを選んだわけです。すると、実際のところ「血」にすがりついていたのは尾形にほかならないことが曝露されてしまう。
 
 こういう転倒にこそ、尾形は恐怖する。弟に突きつけていたはずの「問い」が、彼自身に向く銃口となっていたことに気付いてしまったのです。尾形は165話でもう一度勇作への「問い」を試みます。 

 「勇作殿…旅順に来てから、誰かひとりでもロシア兵を殺しましたか?」
 「旗手であることを言い訳に手を汚したくないのですか?」
 「罪悪感?殺した相手に対する罪悪感ですか?そんなもの…みんなありませんよ。そう振る舞っているだけでは?みんな俺と同じはずだ」 

  例によって言葉で武装した尾形が勇作を圧倒しているように見えます。しかし「問い」の銃弾は同時に尾形も傷つけていることに注意したい。人殺し、血まみれの汚れた手、罪悪感のない冷血鬼、弟を責めるたびに、尾形の言葉はつたなくなり、素の尾形に近く、ついには「みんな俺と同じ」という本音をこぼしてしまったように私には受け取れます。
 
 勇作という鏡の前に立たされて、彼は身にまとっていた「問い」という言葉の「殻」を引きはがされてしまった。尾形がそうしてまで求めていたのは、花沢中将と同じ「呪われろ」の一言だった(作中の時間軸的には逆ですが)のかもしれないし、自分と同じ血まみれの人殺しになることだったかもしれない。しかし、そのむき身の尾形に対し、勇作は抱きしめるという実力行使に訴える。「兄様はけしてそんな人じゃない」と呼び掛け、エスノー問答の前提自体をひっくり返すという第3の選択肢を選ぶわけです。
 
 このやりとりは杉元とアシリパが100話でした会話とも似ています。勇作の「けしてそんな人じゃない」という抱擁は、梅子の「あなた…どなた?」とアシリパの「干し柿を食べたら戦争に行く前の杉元に戻れるのかな」を圧縮したものではないか?
 
 前稿(https://iggysan.hatenablog.com/entry/2018/10/28/171041)で杉元は戦場を生き延びるために「不死身の杉元」という人格=他者をつくり上げたと述べましたが、杉元の場合はこの他者を少しずつもとの「佐一ちゃん」に寄せていくことに100話以上掛かっているわけですね。尾形の場合この自己防御のプロセスを子供時代からずっと重ねる必要があったため杉元より深刻な病状を呈していた。「殻」が完全に尾形自身と癒着してしまっていた。
 
 勇作の「問い」への否定に対し、尾形が選んだ「答え」は「沈黙」。ここにおいて彼の素の姿が明らかにされた、と言う点では勇作の行為と言葉は効を奏したわけですが、その後尾形は銃弾という彼にとっておなじみの、自分自身を守るための「問い」に頼ってしまいました。尾形は自分を守ろうとして「殻」を身にまとい、それにすがったのですから、誰も責められないと思います。また逆に、兄の精神的な危機を見て、何かしてやらねばと感じた勇作の行動と残酷な言葉は短絡的ではあったけど、同様に私は責められない。

 ほんとうは「俺と同じ」は勇作から語られるべきであり、抱擁は尾形の方からなされるべきだったかもしれないと私は感じてしまいますが、戦場においては成長と癒やしの時間があまりにも足りなかったのかもしれませんね。彼らのキャラクターにあまりにも合わないので、妄想の域にとどめておきましょうか。
 
 議論が錯綜してきたのでこの辺でとりあえず稿を締めたいのですが、最後に尾形の「殻」は結局どうなったのかだけ触れておきましょう。尾形が勇作を撃ち、アシリパに弟の面影を重ねていることをもって、尾形がアシリパに危害を加えるのではないか?という懸念を抱いている方は結構いらっしゃるように見受けられました。
 
 チタタプと口にした後、杉元やウイルクを撃ったことを考えると、ヒンナと口にした彼をそう捉えてしまうのはある程度妥当な推定だと思います。ですがそうすると、勇作を撃ってから尾形は一切癒やされていないし、成長していないということにもなります。
 
 勇作の幽霊が「兄様、寒くありませんか?」と「問い」かけてきているのはなぜでしょうか。もちろんこの幽霊は実在する他者ではなく、尾形が作り出した幻影にほかならない。すると、彼は自分自身に問いかけている、あの日勇作と話した問答の繰り返しをしているわけです。
 
 幽霊が口にしているのは尾形に対する恨みの言葉なのでしょうか。「不死身の杉元」が弱い自分を罰するために存在したように、尾形も自身を罰するための他者として幽霊を「殻」の中に住まわせたとしても不思議ではない。「寒くありませんか」は「もっと寒くなれ」という反語、自分自身に対して発する呪いの言葉なのだと捉えるのは絶望的な見解ではありますが、それなりに論拠がありますし、もしそうなら自分を苦しめる幽霊を撃ち倒すために二発目の銃弾をアシリパに撃ち込むかも知れないと危惧してしまうのは自然なことに思えます。
 
 しかし、これはすべて尾形の内面で起きている自問自答です。すでに彼は無防備な「問い」を放ちうる他者を持っている。一方的に「問い」かけることをやめ、「嫌だから…」「いや、俺はいい」と、きちんと自分の意見を表明したりするひとりのキャラクターを目撃しているわけです。やっぱり彼は戦場での彼とはすでに違う人物に変わりつつあるんじゃないかと思います。
 
 尾形の罪は消えるような性質のものではない。ただ、痛みを和らげてくれる友もまた、新たにできつつある。「おなかすいたね」「好物はなんだ」という素直な「問い」を発する仲間、「問い」は反語やのど元に突きつけられた銃口ではないと感じる仲間は育ちつつあるんじゃないか。

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 釧路湿原で尾形を殺そうとした谷垣と再開し、紆余曲折はありながらも、結局誰も傷つけることなく落着させた。むろんこれは裏でアシリパと杉元が姉畑を追っかけてたからこそだし、尾形自身「戦友」のために自分を抑えたとはみじんも感じてないわけですが、結局それでアシリパの信認を勝ち得る。結果的にではありますが、周りの人にとっては「そんな人」じゃなくなりつつある面もあるわけです。


 尾形がアシリパと一緒に旅をし、獲物をしとめるたびに彼の見えないところで、尾形の銃弾はある種の「善行」を蓄積している。周囲の人々に受け入れられる土壌は育ちつつある。もし、杉元が、そして尾形自身が尾形を許すことがあれば、その時初めて「寒くありませんか」という勇作の言葉が、一切の他意がなく純粋に尾形をいたわる言葉なのだと受け止められる素地ができあがるのではないか。そういう希望的な見方もできるとだけ言って終わります。読んでいただいてありがとうございます。

 谷垣?勃起?ウッ、頭が……。

不死身の杉元の死―「肉弾」と「一兵卒」

【1】なぜ杉元は自分の名前を呼ぶか?

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 「俺は不死身の杉元だ」という杉元佐一の言葉は、劇中で何回も繰り返される決めゼリフになっていますが、なぜ執拗に杉元は「不死身」にこだわるのか?という疑問が、今回の考察の発端です。要所要所で彼はこの言葉を口にするわけですが、特に初期において、杉元が死地(ヒグマとの戦い、冷水に飛び込む、二階堂兄弟との戦い)で自分を鼓舞するように言っていたのが印象的ですね。
 
 ただし、巻を追うごとに「不死身の杉元」はなりを潜めていきます。10巻98話の鯉登少尉との戦いを最後に、杉元は自分で自分に呼び掛けることをしなくなる。15巻、岩息舞治との戦い(145話)では「俺俺俺俺」とこれまで言わなかった分を取り返すように「不死身の杉元」を呼ぶわけですが、それでも大体50話分、連載で1年程度のブランクがあるわけです。

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 名前を呼ぶ、ということは「他者」に語りかけるということです。私は杉元佐一というキャラクターと「不死身の杉元」は全く別の人格であると捉えたい。これは仮面ライダーシリーズの「変身」とかセーラームーンの「メークアップ」とかに近い言葉で、こう自称することによって杉元は「不死身の杉元」という戦闘用の人格に変身することができるという決めゼリフなのだと思います。
 
 すると、物語が進み戦いが激しくなるごとに「不死身の杉元」への変身が少なくなっていくのは、どう捉えるべきか?私はアシリパと出会って「不死身の杉元」が杉元にとって必要なくなってしまったからと考えたい。


 【2】「肉弾」と「不死身の杉元」

 杉元が戦闘用人格である「不死身の杉元」を生み出したのはいつのことだったのか考えてみると、やはりそこで日露戦争、旅順攻略戦の中で、という想定をせざるを得ない。機関銃と地雷、火砲が人を紙くずのように吹き飛ばす、地獄のような戦場で生き延びるため、自分を守るために生まれた別人格が「不死身の杉元」であったのではないかと推定できます。

 ちょっと横道にそれますが、日露戦争で旗手として従軍した櫻井忠温という軍人が書いた「肉弾 旅順実戦記」という実録記について触れたいと思います(iBooksで買えちゃう)。櫻井は鶴見中尉のモデルとも言われており、「肉弾」の中には、鶴見や杉元が体験した地獄が如実に描かれています。たとえばこんな文章。失敗に終わった旅順攻略第一陣の後の突撃シーン。 

 「武富大隊は前夜の怨恨を報ぜんものと、一隊粛々、前夜押破ったる鉄条網を越して、猛然突撃に転じたが、松岡大尉まず傷つき、その大腿は切断せられてまた起つ能わず、三宅中尉は砲弾のために背部を掠められて、肺臓が飛び出した。」

 ゴールデンカムイでも描かれたような地獄絵図が「肉弾」の中では延々と、実戦に立ち会った軍人ならではの迫力を持った筆致で書かれます。一方で、軍隊の家族的な「平等」と「美しさ」が嫌と言うほど強調されているのも特徴です。

「上官たるものが部下を愛恤(あいじゅつ)しないのに。何とて部下が上官を畏敬して、心からの服従をなすべきぞ。将校は兵卒を吾(わが)子の如くに慈しみ、兵卒は将校を親の如くに慕わなければ、戦場生死の間にいかにして、本分を全うすることができようか?」

 「従卒高尾文吉、彼は予のかつて教育した兵卒である。その忠実なると熱誠なるとに感じ、予が連隊本部に転勤したときに、特に従卒としていた者である。平時でも将校と従卒の間柄は格別の親しみがあるものだが、ことに戦場に出で生死の境に立っては一層の情交が湧いて、すでに主従ではなくて、兄弟である」

  高尾には月島軍曹の面影がありますね。こうした櫻井の「美談」から明らかになるのは、兵隊たちにとって軍隊が擬似的な家族として機能していたという事実です。櫻井=鶴見という上官は父であり兄であった。さらに、こういう言葉も引いてみましょう。櫻井が旅順要塞への突撃のさなか、銃弾に左腕を撃ち抜かれて倒れ伏したシーンです。

「この時一兵卒あり、予のあるのを見て、「櫻井中尉殿、一所に死にましょう…」。予は彼を左腕に抱いた」 

  戦場という極限状況における絆は、もはや親子兄弟を越え、恋人同士と言って良いような親密さに達していたわけです。「肉弾」は兵士の間でもベストセラーになったそうですから、鯉登少尉が何にあこがれているかが何とはなしにおわかりいただけると思います。鶴見は軍隊というかりそめの絆をフル活用して、彼を慕う人材を集めているわけです。
 
 ここで、倒れ伏した櫻井が気を失う前に見た一人の兵士について、触れておきましょう。

 「折しもあれ、阿修羅王の勢(いきおい)にて、ドッカと囲壁に立ち上がり、銃剣高く差上げ喊声(かんせい)を放ちつつ、敢然として躍り込んだ一兵卒がある。予は彼の猛勇と剛胆に喫驚した。ああ、されど彼はいずこより飛び来りし銃弾に、撃止められて、崩るるが如くに予の右側に倒れかかった」

 この「一兵卒」に杉元が重なります。彼は別連隊の所属で、櫻井は名前さえ知ることができなかった。だけれども、その勇猛ぶり、鬼神のごとき戦いぶりはずっと櫻井の中でくすぶりつづけていたのでしょう。だからこそ、回想記の中で彼を追憶してしまう。鶴見中尉が2巻で杉元に対してこう語りかけていたことを思い出しましょう。 

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 「私はお前のように勇猛な兵士が欲しい。我々と共に戦ってくれ」

 ここでは櫻井があえなく死んでしまった名無しの一兵卒=「不死身の杉元」に語りかける言葉を、鶴見が代弁しているとも捉えられます。戦場という地獄を見て、あまたの戦友を見送った鶴見にとっても偽らざる、腹の底からの「告白」だった。杉元を家族として迎え入れたいという本心がありありと表されています。
 
 でも杉元は彼の申し出を徹頭徹尾拒絶する。なぜかと言えば、「やはりお前は不死身の杉元だ」と言う鶴見が自分の子弟、あるいは恋人として捉えているのは「不死身の杉元」という戦闘用人格であって、杉元佐一本人ではないことに起因するのではないでしょうか?
 
 戦場で生まれたもう一人の自分を杉元は受け入れないし、受け入れることができない。戦争が強制的に押しつけるかりそめの「家族」から孤立した位相に、杉元というキャラクターの孤独があると私は感じてしまいます。 


 【3】「一兵卒」の死と「不死身の杉元」の誕生

 「阿修羅王」としての「不死身の杉元」の位相は、「肉弾」でも、ゴールデンカムイという漫画本編にありありと描かれているけれども、なぜ「不死身の杉元」が誕生したのかについてはもう少し視野を広げて考えたい。これを補完してくれるのは田山花袋が書いた「一兵卒」という短編です。

 版権が切れてるのでiBooksでも無料で読めますし、青空文庫https://www.aozora.gr.jp/cards/000214/files/1066_43394.html)でも公開されている短いお話です。この短編には梅子が言うところの「佐一ちゃん」がどういう人物なのか、「肉弾」では描かけなかった名無しの「一兵卒」のありのままの姿が描かれているように思うのです。

 花袋は日露戦争に従軍記者として立ち会いました。櫻井のように最前線には立たなかったけれど、最前線支える兵站、今風に言えばロジスティクスの現状を目の当たりにしていた。主人公は名も無き一兵卒。脚気に罹患しながらも、瘴気に満ちた病院にとどまるのをいやがり日露戦争の最前線である遼南へとひとり赴きます。

 「銃が重い、背嚢が重い、脚が重い。腰から下は他人のようで、自分で歩いているのかいないのか、それすらはっきりとはわからぬ」

 食糧不足の戦場で蔓延した脚気の症状です。でも彼は前に進まざるを得ない。おめおめと後方で死ぬよりは、名誉のため、戦友や自分を送り出してくれた郷里の人のため、自ら前線に出て銃火をあびて死ぬを潔しとします。 

 「遠いかすかなるとどろき、仔細に聞けばなるほど砲声だ。例の厭(いや)な音が頭上を飛ぶのだ。歩兵隊がその間を縫って進撃するのだ。血汐(ちしお)が流れるのだ。こう思った渠(かれ)は一種の恐怖と憧憬とを覚えた。戦友は戦っている。日本帝国のために血汐を流している」  

 ここにいるのは純粋な仲間思いの青年、鶴見中尉の仲間にもなれる素朴な愛国者です。しかし一転、心不全に膝をついた一兵卒は暗澹とした気分に捕らわれます。

 「軍隊生活の束縛ほど残酷なものはないと突然思った。―中略―出発の時、この身は国に捧げ君に捧げて遺憾がないと誓った。再びは帰ってくる気はないと、村の学校で雄々しい演説をした。―中略―そう言ってももちろん死ぬ気はなかった。心の底にははなばなしい凱旋を夢みていた。であるのに、今忽然起こったのは死に対する不安である。自分はとても生きて還ることはおぼつかないという気がはげしく胸を衝いた」

 お国や仲間、郷里の人々のために死んでも構わないと思っていたはずの彼は、自分の胸を締め付ける病を通して、死の予兆におびえている弱い自分を見いだしてしまう。花袋は無慈悲にもこう筆を進めます。 

「歩く勇気も何もなくなってしまった。とめどなく涙が流れた。神がこの世にいますなら、どうか救けてください、どうか遁路(にげみち)を教えてください。これからはどんな難儀もする!どんな善事もする!どんなことにも背かぬ。
 渠(かれ)はおいおい声を挙げて泣き出した。
 胸が間断ひっきりなしに込み上げてくる。涙は小児でもあるように頬を流れる。自分の体がこの世の中になくなるということが痛切に悲しい」

  私は、ここで子供のように泣いている一兵卒こそがありのままの「佐一ちゃん」、杉元自身なのだと思います。
 
 国も、戦友も、村も、恋人も、どんな絆を犠牲にしても、いかにあさましくても自分は生きたい。自ら赴いた戦地からの逃亡、できもしない慈善、絆や共同体を裏切ってしまう弱い自分。この矛盾こそが彼自身を責めさいなむ罪悪感なのです。

 そしてこの「罪」を「罰」してくれる余裕のある大人は残念ながら「一兵卒」にも杉元のそばにもいなかった。死にたくないという叫びを受けとめる他者も、戦友や国家のために生きよと説く他者も、極限の戦場において存在しなかった。彼の「罪」を許してくれるたった一人の戦友であったはずの寅次はあえなく死んでしまった。
 
 絶対的な他者の不在。「佐一ちゃん」は自分を守るためだけではなく、自分を罰するために「不死身の杉元」という別人格を作らざるを得なかったとは考えられないでしょうか?
 
 おそらく寅次が死んだ瞬間にかれは生まれたのだと私は捉えています。「佐一ちゃん」は自分を守る盾としてだけではなく、すがりつくべき他者として「不死身の杉元」を生み出した。だからこそ彼は、「不死身の杉元」に絶対の信頼を置きつつ、それを他者としてしか捉えられないという自己分裂に陥っているのだと思います。
 
 杉元は鶴見の申し出を受け入れないし受け入れるわけにはいかない。「不死身の杉元」は絶対的な他者であり、櫻井や鶴見のように国、仲間、絆のために死ぬような美学も捨て去っている。こうした認識の断絶があるからこそ、戦場の絆を最優先する鶴見とはハナからそりが合わないのです。 


 【4】「不死身の杉元」の死

 ここで本編に立ち返れば、初期の杉元の「俺は不死身の杉元だ」という言葉の意味がわかってくる。弱い「佐一ちゃん」を守るため、そして「罰」するために「不死身の杉元」という他者を呼ぶ。もう一人の杉元への変身の言葉だという私の考えに近づいてきます。

 脱線が長すぎたのでもう一度論点を整理させてください。杉元は、家族や共同体と完全に切れた人間で自分が戦場を捨てて逃げても、一切罪悪感を感じる必要はなかった。でも戦場において寅次と再び絆を結んだ。ここには「肉弾」で書かれた通りの「家族」が生まれていたと思います。
 
 しかし、寅二の死によってかりそめの絆に情熱を抱くことのできない「一兵卒」としての自分に気づいてしまった。それでも彼は梅子を託された自分を守り、寅次を守れなかった自分を罰する大人として「不死身の杉元」を作り出さざるを得なかったのだと、いうのが私の考えです。

 戦場を生き延びるためには敵を討ち滅ぼす頑健さだけではなく、裏切り者の弱い自分を守り、正当化しつつも罰してくれる「不死身の杉元」に変身する必要があった。だが梅子は「あなた…どなた?」と「佐一ちゃん」を守ってくれた「不死身の杉元」を拒絶してしまう。 

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 梅子はずっと弱さと優しさを抱えた「佐一ちゃん」の思い出に生きてきた。しかし彼女の前に立ったのはかつての恋人とは似ても似つかぬ血なまぐさい男でした。「佐一ちゃん」が「不死身の杉元」に取って代わられている。この乖離に、戦場の恐ろしさにおののいてしまったとも捉えられます。
 
 「佐一ちゃん」が戦場でつくり上げた「不死身の杉元」は彼が生き延びる唯一の手段であったにもかかわらず、彼自身がほんとうに絆を結びたいと感じていた思い人には全く無力だったということが、杉元にとっての最大の敗北であったことはまず間違いありません。
 
 「不死身の杉元」はかれの外側に対する精神的な広がり、「佐一ちゃん」が持っていたはずの「家族」を決定的に欠いていた。このとき「不死身の杉元」もかれを作り出した「佐一ちゃん」も、存在意義を完全に否定されてしまったのです。
 
 それでも、初期の杉元が例の決めゼリフを口にして「変身」するときには、まだかろうじて肉体を生存させる手段としての「不死身の杉元」は機能していたのだと思います。存在意義を否定され、空っぽになりながらもゾンビのように反射的に動いていた。これが1巻から9巻くらいまでの「不死身の杉元」への変身なわけです。
 
 このゾンビを評価するのが鶴見であり、尾形であり、キロランケであり…。つまり「心がずっと戦場にいる」人たちであり、杉元が決して心を許さない人たちです。そして、このゾンビに真正面から立ち向かってきた人物こそ、アシリパなのだと思います。
 
 「立派にアイヌを生きている」少女に出会ったとき、かりそめの人格を作り出さざるを得ず、立派に生きられなかった「佐一ちゃん」はとてつもない羨望を感じた。彼女を生かすことができれば、役立たずの「不死身の杉元」も少しは役に立つはずだ。こういうエゴイスティックな強迫観念が彼女を大切に思う気持ちとゴチャゴチャになっているのが初期の杉元の精神状態なんじゃないかと思います。小樽のコタンにアシリパを置き去りにして、自分一人で鶴見と戦ったのが典型的ですね。
 
 樺戸のコタンでの鈴川たち脱獄囚を殺戮する杉元は、こういうカオスとしての「不死身の杉元」の最終形態、末期症状みたいなものでしょう。自分を守るための人格が自分を守ることさえ考えていないわけですから。アシリパさんさえ生きていてくれればいい、そのためなら俺は「不死身の杉元」でさえあればいいという「佐一ちゃん」の究極の自己否定がそこでは表現されているというのは言い過ぎでしょうか?

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 自らの命を捨てて囚人たちを皆殺しにしつつアシリパに「怪我はないかい?奴らに酷いことされなかった?」と優しく問う杉元にアシリパはおののきを隠せません。「不死身の杉元」の暴力性におびえていると言うより、杉元がかりそめの人格に完全に乗っ取られ、自らを守ることさえできなくなっててしまっているという致命的な自己分裂にこそ危機感を覚えている。そう捉えると、彼女と「不死身の杉元」の根本的な対立が見えてくる気がします。
 
 暴走する「不死身の杉元」を殺し、優しい「佐一ちゃん」を取り戻すために発したのが、10巻100話の言葉です。
 

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 「杉元も干し柿を食べたら、戦争へ行く前の杉元に戻れるのかな」

 アシリパは杉元が戦場でつくり上げた虚構の「不死身の杉元」を否定する。お前は「佐一ちゃん」であって、不死身でもなんでもない。だから弱い自己を認めろ、誰かに助けを求めろと、そう説得する。これは暴走する「不死身の杉元」を唯一死なせることのできる言葉の弾丸でした。

 山の中でいっしょに狩りをして、疲れて果ててもずっと付き合ってくれた優しい男。「情けないシサム」こそが、「佐一ちゃん」でありアシリパと梅子が好意を持つ本来の杉元自身でしょう。目的を達成するためには殺人も死をもいとわぬ残酷な男はかりそめの人格だと、梅子が匂いで感づいたようにアシリパも見抜いていたはずです。
 

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 村を出るとき、「佐一ちゃん。連れてって」と呼び掛けた梅子を捨て、涙を流し、そして戦地から帰り、梅子と再会したときには泣くことさえできなくなっていた杉元。かれは鹿の腹の中でアシリパの呼び掛けで再び涙を流すことができるようになる。アシリパの「戻れるのかな」という独白に梅子の「連れてって」の残響を、「佐一ちゃん」を求める言葉を聞いた。「不死身の杉元」は完全に死に、弱くて涙もろい、そして優しい「佐一ちゃん」が息を吹き返したシーンだったのではないでしょうか。 

 【5】よみがえる「不死身の杉元」

 それでは「不死身の杉元」は完全に死んでしまったのでしょうか。いえ、生きています。彼の中で深く息づいている。12巻、釧路湿原でのヒグマとの戦いで再び、「不死身の杉元」が現れるわけです。
 

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 「俺は不死身だぜ!!」

 この死地においてアシリパが殺した自暴自棄の「不死身の杉元」が墓場からよみがえってきているようにも読めます。ただ、彼は「俺は不死身の杉元だ」と、変身の言葉は口にしない。あくまで「俺」に対して呼び掛けている。もはや、彼には他者としての「不死身の杉元」は残っていない。
 
 杉元はアシリパの毒矢を拾って、ヒグマに突き立てる。彼はアシリパアイヌが培ってきた知識を完全に信頼しきっている。呼び掛けるべき他者は「不死身の杉元」ではなくなっているということの一つの表れなのだと思います。
 
 アシリパは自暴自棄になる彼を責めることはあっても、彼自身を決して否定しはしない。だからこそ彼は弱い自分を守り、そして否定するために生み出した「不死身の杉元」も自分自身であると認めることができた。「不死身の杉元」と「佐一ちゃん」の間に差異が存在しない以上、彼はもはや変身する必要がない。アシリパという外部回路に接続してはじめて彼は分裂していた自己を統合できたのです
 
 尾形に対するリアクション(14巻)も興味深い。 

 「あんな狙撃が出来るのは尾形百之助しかいねえ。
 撃たれた瞬間…あいつを感じた」
 
 「尾形もキロランケも、ぶっ殺してやる」 

 ここにおいて無慈悲な「不死身の杉元」がよみがえっているように見えます。でも私は、これも杉元の再生のプロセスの一環であると捉えたい。なぜなら、「ぶっ殺」すというのは杉元が自らを大切にしているからこそ言えるセリフであって、戦場で自らを守るためだけに生まれた「不死身の杉元」とは一線を画しています。戦場での回想シーンを見ると、意外なほど杉元は冷静でこういう怒りをあらわにはしない。
 
 この言葉には他者がいるアシリパを奪われた怒りもあり、自分を傷つける尾形とキロランケに対する怒りもまたあります。14巻で鶴見に「200円俺にくれ」と言い、岩息との戦いでもまず「金塊…」とこぼす彼に私は少し安心してしまいます。彼が取り戻そうとしているのはアシリパであると同時に、梅子の未来を支える自分自身でもあるように感じるからですね。
 
 樺太に入ってからの杉元の精神状態に関しては、正直言ってよく分かりません。安定しているのかそうでないのか、岩息と戦ったときの「不死身の杉元」は何なのか。物語の進みゆきをもう少し待たなければ確定的なことは言えなさそうです。
 
 ただ一つ、言及しておかなければならないのは、15巻のアシリパの発言でしょう。
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 「あいつは『不死身の杉元』だぞ」

 「不死身の杉元」を恐れていたはずの彼女が再びその名を呼ぶのは、なぜなのか。「不死身の杉元」が本来の杉元に統合されつつあると彼女もまた感じていたからではないでしょうか?杉元がそれを聞いて安堵の表情を浮かべるのは彼女の無事というのもありますが、また「不死身の杉元」に変身してしまったという罪悪感に対する自己肯定感もあるように思う。もはや彼女が「不死身の杉元」を恐れていないという事実、杉元にとっては最も安心できる言葉だったのではないでしょうか。
 
 例によって最後はとっちらけです。「不死身の杉元」はいまだ死なずというテーマだけは残して稿を締めます。お読みいただいてありがとうございました。谷垣の「勃起」について、次こそ書きますからお許しくださいボルガ博士!

アシリパの顔が変わるのはなぜか?

 前回(https://iggysan.hatenablog.com/entry/2018/10/08/010600?_ga=2.151640761.101970597.1538925000-1944750438.1538563874)は国家に対する「乱」としての「猟師の魂」という観点から二甁鉄造とウイルクを捉え直す、というややこしい読みをやってみました。その考察の中で、もう一人の猟師であるアシリパについて十分に触れられなかったので、今回は余録としてアシリパの側から「猟師の魂」とは何なのか考えてみます。


 前回を読まなくても読めるような内容にはなっていると思います。むしろこっちの方が王道的な解釈、前回こそが余談だとも思うので、こちらから読んでいただいたほうがいいかもしれません。

 

 【1】顔が変わるということ

 本題に入る前に、彼女の描写の変化について私見を述べておきたいと思います。最初の登場シーンから3巻の二甁編くらいのアシリパを比べると分かるのですが、顔の描写が全然違います。というか完全に別人です

 

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 ↑右と左はおんなじ人なんですよ!


 こういうことはキャラクターが固まっていない連載漫画の初期には良くあることとスルーもできますが、キャラクターを描く上で顔は最も重要なアイデンティティなので、明確に作者が何らかの意図を持って変えていった、ないしは変えざるを得なかったのだ、と私はあえて読みます。


 登場時のアシリパは眉毛がつり上がっていて、輪郭も鼻も三角形に近いシェイプ、つまり全体的に角張った、冷たい印象のある顔つきとして描かれています。
 一方で2、3巻くらいになるとかなり顔つきが穏やか、というか全体に縮んで子供っぽくなる。眉毛はほぼ水平、輪郭も鼻も丸みを帯びて、今の連載を見てもこのディティールの表現はそんなに変わっていません。キャラを描くのにこなれていったということを差し置いても、やはり彼女の心境の変化が顔に表れているのだと思います。2巻でアシリパのおじであるマカナックルが 

 「そんなことがあってからアシリパは笑顔を見せなくなったが、最近はずいぶん明るくなった」 

 こう述懐してます。「そんなこと」とは父であるウイルクとレタラとの別れを指しているわけですが、そのトラウマを杉元を通していやしたと捉えてもいい。ゴールデンカムイという物語を通して、アシリパの知識が杉元を導くという構成が取られることも多いのですが、逆に杉元を通して彼女は何かを取り戻したと考えられます。


 顔に傷を負った杉元にウイルクの面影を見た、失った父親の代理を見出したということかも知れません。ただ、杉元とアシリパの精神的な交流はすでに、ウイルクがアシリパに与えた知識の領域を飛び越え、その先へと至っていると私は思うのです。


 【2】断崖を飛び越える

 最近のインタビュー(https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1538581439)でアシリパ役を務められている白石晴香さんと杉元役の小林親弘さんの会話が、私には完全にアシリパと杉元のやりとりに見えて、すごく興味を引かれました。ちょっと引用しますと 

 ―「オソマおいしい」で一皮むけた感じも面白かったです。
 白石:あそこがアシリパさんの初めての面白いシーンでしたね。
 小林:そうだっけ?もっと前から面白いっていう印象が…。
 白石:そこまでは説明セリフが多かったので、面白い一面はあそこでパッと開いたんじゃないかなと思います。
 小林:じゃあ、あれが目覚めの瞬間だったんですね!?

 この会話から滲み出るのは、演じられている方だからこそ分かる、キャラクターが持つ繊細なニュアンスに対する感覚だと思うのです。アシリパはあそこでやっと心を開けたと思っている。それまでは自分の知っていることを一方的に説明するだけだったと。でも杉元はずっと面白い女の子だったと考えていた。この対比がフレッシュで、二人ともとても良い役者さんだなと思ったのです。


 二人の間には溝が存在していて(少なくともアシリパはそう感じていて)、桜鍋を食べるプロセスを通して、やっと二人の間にあった見えない断絶、つまり教える―教えられるという一方的な関係は解消されたとも言えるのではないでしょうか。すなわち、彼女は学ぶ立場に立ったのです。


 私は白石さんと小林さんのやりとりで、アシリパの顔の変化はここに起因すると捉えられると思い直した。知識を教える指導者という一歩引いた立場から、家族という同じ共同体の成員になった、そういう表現なのだと思います。

 

 それが端的に表されているのは、鹿狩りのシーン、二甁編の導入となっている部分です。このエピソードは二人の間の溝を如実に描き出しています。3巻で杉元は鹿に感情移入してしまう。

 「このまま鹿を逃がしたら無駄に苦しい思いをさせただけだ。必ず仕留めてあげなくては」
 「傷を負いながら懸命に生きようとするこいつに睨まれたら…。動けなかった。こいつは俺だ…」

 ここで彼が戦場で負った心の傷、不死身の杉元ではない、弱い彼自身が明らかになるわけですが、逆にこれまで教える立場にあったアシリパはこの傷に、弱さに気付いていなかった。そして「肝臓や肉の味が落ちても脳みそや目玉はおいしく食べられるから、そんなに心配するな」と杉元には見当外れな慰めを言ってしまう。これはユーモラスなコントにも見えますが、彼女たちの間に決定的な断絶が存在しているということを示しているシーンでもある。彼らが生きてきた世界は全く異なるのです。


 アシリパは杉元の「こいつは俺だ」発言を聞いてようやくその断絶に、杉元が生き抜いた戦場の恐ろしさに気付かされた。彼女は彼にこう諭します。 

 「鹿は死んで杉元を暖めた。鹿の体温がお前に移ってお前を生かす、私達や動物達が肉を食べ、残りは木や草や大地の生命に置き換わる。鹿が生き抜いた価値は消えたりしない」

 これは、よくよく聞くと杉元にとって何の慰めにもなっていない。だって結局鹿は死んじゃうわけですから、杉元がこだわっていた「個」としての自己の生存というテーマに対しては何の答えにもなっていない。だからすごく不器用な言葉なんです。死んだけど誰かの役に立ったなんて、今もしツイッターとかSNSでこんな追悼の辞を口にしようものなら、たちどころに炎上してしまいますよね。


 アシリパはむしろ自分たちの生きている世界はこうなんだ、生命は循環するのだ、という杉元にとっては酷薄にも聞こえるだろう「個」のない世界観を説きます。でも、これは彼女にできる精一杯の慰めなのです。だって杉元の傷について、そして杉元の生きている世界についてアシリパは何も知らない。だからこそ、彼女は下手な癒やしを与えず、自分自身の生きている世界を杉元にさらけ出すことを選んだ


 杉元は彼女の言葉の内容だけではなく、二人の生きている世界の間にある、深い、そして見えざる断崖に飛び出したアシリパに感嘆する。身を投げ出す彼女を受けとめなければならないと感じたからこそ、彼女の発言を受け入れる、そう私は捉えます。この瞬間において、教える―教えられるという非対称な関係性が解消される。対等な立場で話し合える家族として二人の関係が構築されたのだと思います。


 その後の杉元とアシリパのやりとりも、二人の間の溝を考えると感慨深いものがあります。

 「もし俺が死んだら、アシリパさんだけは俺を忘れないでいてくれるかい?」
 「ヒンッ!!死ぬな杉元!!」

 
 完全に二人の世界観が入れ替わっているのがおわかりいただけるでしょう。杉元はアシリパの説くエコロジー的な生命の循環を完全に受け入れ、自分が死んでもその価値が彼女の中に生きれば良いと確信している。でもその価値観を彼に教えたはずのアシリパは「個」としての杉元に生きていてほしいとすでに望んでしまっているのです。


 杉元もアシリパも互いに違う世界の人間であることを確かめ合い、断絶を認め、そしてその溝を飛び越え受けとめた、二人の心の交流を描いた印象的なシーンだったと思います。 

 


 【3】アシリパの「猟師の魂」
 

 アシリパの説く生命の循環を軸とする世界観は、同じく3巻の二甁の言葉にも重なります。

 「山でに死にたいから脱獄した。勝負の果てに獣たちが俺の体を食い荒らし、糞となってバラ蒔かれ山の一部となる。理想的な最後だ」

 荒っぽい言葉ではありますが、これはアシリパの説く「鹿が生き抜いた価値は消えたりしない」のリフレインです。ただ二甁の場合は、「猟師の魂」への固執から、この言葉が導き出されます。


 二甁の「猟師の魂」について、前稿(https://iggysan.hatenablog.com/entry/2018/10/08/010600?_ga=2.151640761.101970597.1538925000-1944750438.1538563874)で述べましたが、それはウイルクの皇帝暗殺と同様の反乱、昔からずっと続く民衆の専制国家に対する「乱」の精神であるという見解を私は抱いています。二甁もウイルクも「猟師の魂」という自然に生きる者のプライド、そして自分たちを抑圧する権力への闘争の動機を見いだしていたという点で共通している、というのがかいつまんだ結論です。

 

 アシリパにもその片鱗は見られる。たとえば1巻の「弱い奴は食われる」発言です。
 

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 言い換えると自分は食われない、すなわち強いということです。明らかに猟師としての自分への自負、闘争の気骨が見え隠れする言葉ですし、ウイルクの教え、ウイルクの「猟師の魂」がどういうものだったかを如実に表しているとも言えます。


 14巻で回想されるウイルクによる狩りの指導は、優しいお父さんの顔に隠れてしまいますが、普通に考えればあり得ないほどのスパルタ教育です。凶暴な猛獣の前に娘を投げ出すようなことをするでしょうか?。いざとなればウイルクが助けるにせよ、彼女の心に深い傷を負わせるような真似をあえてする、まともな神経ではできません。

 「アシリパは山で潜伏し戦えるよう…育てた。私の娘は…アイヌを導く存在…」 

 彼の指導方針は明白です。彼女を「乱」の主導者に足るパーソナリティに育成しようとしていたわけです。それはヒグマ狩りの回想からも分かります。 

 「おめでとうアシリパ。恐れず動きも正確だった」

 この賛辞は3巻で二甁が「ビビっておっ立っちゃ負けよ」と谷垣に(あるいは二甁自身に)語っていたことと完全に重なります。ビビる奴は弱い奴。だから彼女はビビらない、恐怖しない。「乱」を率いるものは、自らの死を恐れてはならない。二甁とウイルクの間で共有されていた「猟師の魂」にはこういう戦乱を率いるものの自己規律、ノブレスオブリージュ的な側面があったのではないか、そう私は読んでいます。


 冷徹な狩人、反乱の気風を知ってか知らずか、彼女は父の教えをきっちりと山の中でずっと保ち続けて暮らしていた。それが1巻で杉元と出会った硬い表情の少女で、山の中で獣の掟を破った盗人を追っていた二瓶と同じ峻厳な顔つきなのです。こうした人物像は、後の彼女からはイメージできない。13巻で彼女が杉元に吐露した胸の内からも明らかです。

 

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「全部アチャ(お父さん)が教えてくれた。山のこともアイヌのこともすべて…。杉元…、私は怖い。アイヌを殺して金塊を奪ったのっぺら坊が私の父だったらどうしよう…」 

  彼女はもはや、1巻で出てきた冷ややかな指導者ではない。精神的な支えである父の裏切りを恐れ、おびえる一人の人間です。その隠されていた自己に気付かせてくれたのが、まさしく杉元だったわけで、鹿も殺せない「情けないシサム」である杉元の中に自分が持っている本来の弱さを垣間見たのです。


 だからこそ、「弱い奴は食われる」という無慈悲な言葉を繰り返さず、「鹿が生き抜いた価値は消えたりしない」という言葉を選ぶ。これは杉元への慰めではなく、自分自身の弱さを認める発言だったとも捉えられます。父親の教えた「乱」としての「猟師の魂」に対する決別であり一つの賭け、自分の生きている世界と杉元の生きている世界をつなごうとする跳躍であったとも思えるのです


 
 【4】余録の余談

 ここからは余談ですが、こうして考えてみると、アシリパは一見して確固とした自己を持っている指導者のように見えますが、十代前半の年少者らしい気負いみたいなものも感じられてほほえましいところもあります。杉元にあーだこーだと山の知識を教える彼女の姿は、完全に年の離れた兄妹のありようです。


 杉元はアシリパを尊敬するだけではなく、かけがえのない家族として受けとめる。その居心地の良い空間が、読者がずっと付き合ってきたゴールデンカムイという物語の抱えるユートピアなのだと思います。


 谷垣とチカパシの間にも、明らかにこうした兄弟の絆があります。チカパシに対して指導的な立場に谷垣がいるわけではなく、チカパシを通して谷垣は「猟師の魂」を学び直す、ミノボッチをかぶってマタギの猟に付いていった自分を思い出す。


 「家族だから」とつぶやくチカパシを信じ、インカラマッを助ける。そこには他者と他者が、しがらみを飛び越えて結びつくというユートピア的な共同体が回復しているように思えてなりません。


 とりあえず、「猟師の魂」に対する読みは以上になります。この言葉にはアイヌの持っているエコロジーの考え方が最も重要な比重を持っているようにうかがえる。「天から役目なしに降ろされたものはひとつもない」という、単行本の折り返しに書かれてはいるけど物語の中では一度も語られない言葉こそが、二甁もウイルクもアシリパも持っていたはずの本来の「猟師の魂」なのだと思います。


 この側面こそ、アシリパが杉元に伝えたものだと私は感じるのですが、今の私の勉強量では言葉にできませんでした(あるいは言葉で語るべきものではないのかもしれません)。ここにこそ物語が収斂していくポイントがあるとだけお断りして、この稿を締めます。次こそ谷垣の「勃起」について語ります(やるやる詐欺)。お目通しいただき、ありがとうございました。(了)

 

最後の狼ー二瓶鉄造とウイルクの「乱」ー

 【0】はじめに

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 これまで細々とツイッター上(イギーさん (@BlackSabbthVol4) | Twitter)でゴールデンカムイについてつぶやいてきたことを、曲がりなりにも整えた長文の形にしようと思い立ちました。その切り口として最もふさわしいのは誰かと考えた時、やはり二甁鉄造が自分の抱えている問題意識に最も近い場所にいるんだろうと思い、今回の論考の題材に取り上げます。


 彼は刺青の脱獄囚の中でも傑出した存在で、読者にも大きな印象を残しているわけですが、それは自然に対する愛着だとか男気とかの点において傑出しているだけではなく、彼が明白に国家に対する反逆を自分の行動原理と位置づけているからではないかというのが、私の視座であり論点です。「猟師の魂」とは謀反、古い言葉で言えば「乱」の心とでも言うべきものなのです。


 飛躍した結論から入ってしまったので分かりづらいかもしれませんが、言い換えますと、二甁は個性豊かな刺青の囚人の系列ではなく、鶴見や土方、のっぺらぼう=ウイルク、キロランケというクーデター首謀者たちと同じ系列に属していると考えたい。国家の下で支配されることを好まず、独立を求めるという気風が似通っていると言えば、何となくおわかりいただけるでしょうか。

  特に、ウイルク(ポーランド語で「狼」という意味だそうですね)と二甁の間には明白な相似を感じます。二人が優秀な狩人であるということがまずあるでしょうが、やはり国家に反逆する謀反人の陰りを共有している。推定だけを言ってもしょうがありませんから、実際に両者の来歴をたどりつつ(これも推定にすぎませんが)、彼らがどのようにして「国家」というものに直面し、反目するに至ったかを考え、相似をあぶり出してみようと思います。


 【1】近代との対面

 二甁は永倉よりは年下とありますから、60歳くらいと考えるのが妥当でしょう。舞台が明治末(1906、7年)なので、明治維新は青年時代の出来事と思われます。出生地・生活地域は分かりませんが、暫定的に北海道としておきましょうか。年代的にはウイルクが50歳くらいだと思います(キロランケよりやや上か)。


 二甁はもしかすると、戊辰戦争の最終戦である箱館戦争に若くして参加したかもしれません。土方と肩を並べて戦ったのかもしれない。ただ、あくまで想像ですから、不要な仮定を付け加えないよう、戦乱とは無縁に山の中で暮らしていたと考えるのが無難でしょう。彼の来歴から確かなことは一つ、壮年期の彼が息子を日清戦争(1894年)に取られたということ。ここにおいて、初めて彼は国家権力というものに直面したと言えないでしょうか。


 江戸の末期に生まれた彼が少年から青年時代に見聞きした戦争というものは、旧時代の内戦、すなわち「乱」でした。現代の我々がイメージする国家間の戦争とはかなり隔たりがある。戊辰戦争は徳川家に対する薩長の政治的権力奪取ですし、西南戦争も政治闘争に敗れた西郷の巻き返し作戦と捉えられます。


 あくまで誰が政治のハンドルを握るかというヘゲモニー闘争であって、少なくとも民衆レベルではどちらが勝とうがどうでも良かった。せいぜいお殿様や庄屋が代わるくらいのもので、年貢の取り立てがどうなるかのほうが重要だった。これは日本の民衆において長らく共有されてきた戦乱への認識だとも思います。


 こういう民衆の視点で見ると明治政府と日清戦争というのは、昔なじみの「おかみ」と「いくさ」とは様相が全く異なります。これまで影も形もなかった日本という統一国家がいきなり現れてお前たちは国民だと号令し、一律の地租改正で重税を課し、清という海の向こうの大国への侵略を始めるのです。


 二甁は、これまで通りの内乱の感覚がまだ根強く残っていた。戦争とは自分たちの土地を荒らす、「おかみ」の小ぜり合いくらいの認識だったのではないかと思います。武士であれば戦うのは義務ですが、狩りを生業にしていた二甁には無関係な話。それでも猟師の子弟まで狩り出す。こんなことは二甁も思いも寄らない事態だったと思います。


 似たような事態は、すでにウイルクにも起こっていた。1875年の樺太・千島交換条約がそれです。日清戦争の20年も前の話になりますが、千島列島を日本領とする代わり、樺太全島をロシア領へとすげ替えるという乱暴な取り決めです。その中で樺太アイヌであったウイルクは村の人たちが「ロシア」と「日本」のどちらかを選べと強制され、日本を選んだ者たちは北海道へと移住させられた。国家によって民族が分断されるのを目の当たりにした訳です。


 形こそ違いますが、二甁の場合と同じく、おそらくは唐突に現れた「近代国家」が突きつける命令によって、初めて国民という概念に直面した。そして、国家と国民という概念が、二甁にとっては息子の戦死、ウイルクにとっては村落共同体の断裂を招き、猛烈な反発をお互いに抱かせることになった。そう考えると両人の位置づけがはっきりしてきます。近代的な国民国家は彼らにとって、誕生した当初から明白な「敵」だったのです。


 【2】「乱」への固執

 二甁とウイルクは両方とも、生活の基盤となる家族と共同体を国家によってバラバラにされてしまいました。彼らに残された選択肢は、服従か反乱かの二つに一つです。ウイルクが選択したのは後者でした。彼は近代化を推し進める帝政ロシアに対抗するため「人民の意思」に参加し、1881年には、ロシア皇帝アレクサンドル2世の爆殺というテロリズム、すなわちヘゲモニー闘争という古い形の「乱」を主導するわけです。


 二甁がたどった筋道は真逆のようにも見えます。息子を失い、おそらくはこのタイミングで妻と娘と離縁、山にこもって熊撃ちを続ける、屈従の道を選んでしまった、と。しかし、私は彼の心のうちにはテロリズムに走ったウイルクと同じ「乱」の気が充ち満ちていたのだ、そう思えてなりません。


 二甁が獲物を横取りしようとした強盗を、官憲の目の前で絞め殺してしまうのはなぜか。彼は「ヒグマより獲物に執着する」と自身を獣になぞらえます。獣の掟は家族を失った二甁が長らく親しんできた最後のよりどころだった。間接的にではありますが、強盗の絞殺は「乱」に身を投じるきっかけ、近代的な国家を象徴する官憲に対しての開戦の狼煙だったと考えられはしないでしょうか。


 しかし獣の掟は「人間の掟」、近代国家の法治システムの前にあえなく膝を屈した。彼は殺人罪で召し捕られる。これは国家に対する二度目の敗北だったと思うのです。この経緯はウイルクも同じです。自分の生きる共同体を分断されたことへの怒りが彼の中にふつふつと煮えたぎり、皇帝暗殺という「乱」への道を取らせた。しかし、すでに成立してしまっていた近代的国家はびくともせず、彼を下手人として極東へと追い詰めていく。彼の心情を察するに、敗北というほかはないように思います。ウイルクも二甁と同じく、二度の敗北を喫したのです。


 アレクサンドル2世暗殺と強盗絞殺、ベクトルこそ違いますが、この「乱」の首謀と失敗が両者の行為を結び合わせる絆です。近代的国家に反逆し、二度の敗北を喫した古風な「乱」のプレーヤーである両人が、ヨーロッパが生み出した最新の統治システムである監獄、それも極東アジアの果ての網走監獄で巡り会ったのは、必然的なものだったのと思います。

 【3】最後の狼と猟師の魂

 網走監獄で邂逅した二人の謀反人、二甁とウイルクの間でどんな言葉が交わされたかは想像するほかありませんから、明確には言葉にできない。たぶん二甁が一方的に狩りの話とかをしていたんじゃないかとは思いますが、これも不要な仮定ですね。


 ただ二人を結び合わせる絆は「乱」の他に、もう一つあるのです。それはレタラ、最後のエゾオオカミです。ウイルクの娘、アシリパの最高の相棒であり、脱獄した二甁が欲する最高の獲物でもありました。3巻での二甁の発言を振り返りましょう。 

「鹿の大量死でエサので無くなった狼は、家畜を襲うようになり、人間の罠によって絶滅するまで駆除された。その知恵比べにも負けず生き残った最後の狼。狼の個性とオレの個性の勝負。猟師の魂が勃起する!!」

  二甁が最後の狼に固執する理由がつぶさに語られています。かつては本州では「大神」と呼ばれた山で最も気高い獣―ホロケゥカムイ―が、近代的農業と都市発展の邪魔者として毒餌で駆除されていく。そこに近代国家に息子と、獣としての自分を奪われたプロセスを見いだした。つまり二瓶は最後の狼の中に、権力に反抗する自分自身を重ねたのです。


 二甁の「猟師の魂」に対する説明はその後もなされます。

 「山でに死にたいから脱獄した。勝負の果てに獣たちが俺の体を食い荒らし、糞となってバラ蒔かれ山の一部となる。理想的な最後だ」

 おそらくこの発言に偽りはない。ただ語られざる裏を読む必要がある。こうしたエコロジー的な発想の裏には、そのエコロジーを脅かす「近代国家」に対する絶えざる反乱が煮えたぎっていると、私は捉えます。お前はまだ戦えるのか、息子も妻も、娘も失って、近代国家とやらの前に膝を屈した俺に生きる資格があるのかという自問自答、すなわち自分自身に対する「乱」を二甁はずっと繰り返してきた。これこそがレタラとの戦いに二甁を導いた動機なのだ、そう私は位置づけたいのです。

 

 近代に追われた男は、近代に追われた獣に、最後の狼に自己を重ねた。敗北し続ける弱い自分自身を殺さなければ、前には進めないという強迫観念が彼をレタラ狩りに駆り立た最大のモチベーションだった、そう考えると「猟師の魂」の裏が読めます。それは彼にとって最後の「乱」だったのです。


 一方で、ウイルクがレタラをどのように捉えていたか、少し考えてみましょう。母親と死別した狼の子どもを、なぜウイルクが拾い、アシリパと一緒に育てたのか、という問いが残りますね。


 自然の獣なんだから、当然いつかは自然に帰る。アシリパにとっては兄弟を失わせる、つらい思いをさせるだけです。でもウイルクはレタラを放ってはおけなかった。やはり家族や村と引き離された自己を、最後の狼の中に投影していたのではないかと勘ぐってしまいます。ウイルクは自らの「乱」を最後の狼であるレタラに託した。近代国家への反抗を次代に引き継ごうとした、そう考えるのは邪推でしょうか?


 反抗の末、網走監獄に投じられたウイルクは、刺青を彫る二甁の背中から、自分の中でくすぶっていた「乱」の燃えさし、絶えざる反抗の精神としての「猟師の魂」を感じ取ったのではないでしょうか?自分と同じ「乱」の血脈を体中にたぎらせる二甁を、自分自身の写し身であるレタラに会わせてみたいと、ウイルクは考えたのではないか、そう感じてしまうのです。


 【4】狼の最後、回復する家族

 脱獄した二甁は、ウイルク、そして自分自身の分身であるレタラとの戦いに命を賭けます。ウイルクが二甁に何と言ったかは語られざるところではありますが、二甁はウイルクの意思を察したはずです。反抗、そして「乱」、自らが殉じた「猟師の魂」を貫いてみせよ、そういう無言のメッセージを肌に刺さる針を通して感じ取ったからこそ、二甁はレタラに固執する。両者のつながりは、一層強固なものとなります。


 しかし二甁は脱獄して谷垣と出会ってしまう。これは決定的な転回になりました。彼が失った息子、近代的な国家に強制され、戦地に送り出してしまった自分の分身が、今一度二甁の元に舞い戻って来たのです。


 この時点で二甁とレタラとの戦いは、自分自身を乗り越えるための戦いではなくなってしまった。二甁自身、意識せざるところだったでしょうが、彼の戦いは「乱」から、息子の魂を呼び返すという宗教的位相へと形を変えた、というのが私の考えです。


 3、4巻での二甁の描写は、ほとんど祈りに近いとさえ思います。彼は身を投げ出す。襲いかかるヒグマの前に、銃を構える谷垣の前に、襲い来るレタラの前に、ありのままの「猟師の魂」をさらけ出します。それはもはや「個性と個性の勝負」などではありません。勝ち負けはどうでも良い、「乱」に殉じた自分、近代に押しやられた狼の姿を見よ、という殉教者の意思さえ感じられるように思うのです。


 二甁の戦いからは何か悠然とした心の落ち着きが感じられる。二甁の最後の「乱」はレタラとの勝負ではなく、むしろ、その前の谷垣との会話だったからです。

「『コレヨリノチノ、ヨニウマレテ、ヨイオトキケ』。熊を成仏させるために引導を渡すマタギの唱え言葉だ。あの戦争で殺した相手には一度も唱えることはなかった」

 この言葉を聞いた二甁が何を感じたか、それは12巻のキラウシの回想の中で、二甁が語る死んだ息子のエピソードが代わりに語ってくれます。

 

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「俺には子供がたくさんいるが息子はひとりだけでね。これはその息子が日清戦争で使っていた銃だ…。届けてくれた息子の戦友が『この銃床の傷は息子さんが敵を撃つたびに刻んでいた』と…」
 「殺した責任を背負い込むような甘ったれは、兵士になんぞならないで俺と熊撃ちをしていれば良かったんだ」 


 たぶん二甁は、息子を引き留められなかったことに、おおきな罪の意識を感じているのです。それこそが彼が「乱」を首謀した動機であり、彼を山に一人こもらせ、自問自答を繰り返させた動機であると言っても過言ではないと思います。傷ついた彼の前に、戦争で傷を負いながらも自然の中で癒やされつつある若者が現れた。二甁は谷垣にこう諭します。

 

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 「…お前にとって『狼狩り』は口実なのだ。軍にも故郷にも戻れず、お前の猟師魂は北海道の森を彷徨っている。谷垣よ狼を獲ったら毛皮を手土産に故郷へ帰れ」 

 これは二甁にとって、引き留めることのできなかった息子との対話、最後の賭けだった。近代的国家と昔ながらの生活とどちらを選ぶのか、問いかけている、自問自答の繰り返しでもあります。谷垣が軍帽をたき火の中に投げ入れたことをもって二甁は賭けに勝った、そして二甁の「乱」は完全に終焉したのだと、私は捉えます。遠い戦地で亡くなった息子の魂が帰ってきた以上、もはや彼に戦う動機は残ってはいませんでした。


 結末は二甁の死で終わりますが、勝敗はどうでも良かった理由がおわかりになるでしょう。レタラが妻に助けられたという事実が二甁をさらに安堵させます。レタラは「乱」ではなく、自分と家族のために戦っていたという当たり前の事実に二甁はあらためて気付かされる。絶滅したはずの狼が、近代に奪われてしまった家庭を守っている。二甁は自らの祈りを成就させ、終わりのない「乱」を終えることができたからこそ「だが満足だ」と言えるのです。


 立会人として、息子である谷垣がいたということは何より重要なことと思います。稿を改めて書きたいとは思いますが、谷垣は「猟師の魂」を「乱」ではなく、フチ―チカパシ―インカラマッという新しい家族の中で捉え直す。二甁の生きられなかった人生を再建する。この流れはゴールデンカムイという物語全体を通じて出色のエピソード群だと感じています。

 生き延び、生きる糧を得るための猟、その原点に立ち返る。国家もヘゲモニー闘争もなく、過去に自分が属していたユートピアとしての共同体が、死にゆく二甁の眼前に未来としてよみがえった。そう捉えれば、二甁の死はまんざら無慈悲な最後ではなかったのだと、思い直すことができるはずです。 


 【5】「乱」のおわりに

 ウイルクは網走監獄の中で不意に頭を打ち抜かれて死んでしまいます。二甁の大往生とは打って変わって、殺伐とした末期です。でも、その直前に彼と話したのはアシリパに託したマキリを持ったシサムでした。これは二甁が最後に谷垣と出会ったこととパラレルな関係にあると思います。


 ウイルクは囚人に刺青を施していた時、「乱」に散る二甁の、そして自分自身の無慈悲な最後を思い描いていたでしょう。でも違うのです。ウイルクの前に立ちはだかったのは、「チタタプしてヒンナヒンナしてほしいんだよ」と、娘であるアシリパの将来の平穏を祈る若者でした。精神的な息子として杉元が目の前に現れたのです。


 「乱」としての「猟師の魂」はウイルク=レタラ=二甁の間で潰えた幻想でした。でも最後にジョーカーをウイルクは残していた。アシリパ、彼女もまた「猟師の魂」を継ぎ、変奏する者だったのではないか。ウイルクは、杉元の中に自分自身がこだわった「乱」ではなく、全く新しくも懐かしい「猟師の魂」を引き継ぐアシリパを見いだした。ウイルクが杉元とふれあったときに感じたものは、二甁が谷垣の中に見た平穏に似た何かだった、と私は捉えています。


 最後の方はずいぶんとっちらけですので、アシリパと杉元が「猟師の魂」と「乱」をどう捉えたのかは、稿をあらためて書き直します。ただ一つ言えるのは、彼らの生きている明治末という時代は、国民国家が完成の域に達し、もはや「乱」が成立し得ない状況にあったということです。アシリパも杉元も、「猟師の魂」、そして「乱」を引き継ぎながら、自分たちなりのアレンジを加えていく。その先達として谷垣とインカラマッ、チカパシという新しい家族がいるのです。


 国家や民族を超えて、何か新しいつながりが築かれる、それこそがゴールデンカムイという作品のたどる道筋なのだと言って、この稿を締めたいと思います。お目通しいただいてありがとうございました。いつか谷垣について書きたいですね。(了)