アシリパの顔が変わるのはなぜか?

 前回(https://iggysan.hatenablog.com/entry/2018/10/08/010600?_ga=2.151640761.101970597.1538925000-1944750438.1538563874)は国家に対する「乱」としての「猟師の魂」という観点から二甁鉄造とウイルクを捉え直す、というややこしい読みをやってみました。その考察の中で、もう一人の猟師であるアシリパについて十分に触れられなかったので、今回は余録としてアシリパの側から「猟師の魂」とは何なのか考えてみます。


 前回を読まなくても読めるような内容にはなっていると思います。むしろこっちの方が王道的な解釈、前回こそが余談だとも思うので、こちらから読んでいただいたほうがいいかもしれません。

 

 【1】顔が変わるということ

 本題に入る前に、彼女の描写の変化について私見を述べておきたいと思います。最初の登場シーンから3巻の二甁編くらいのアシリパを比べると分かるのですが、顔の描写が全然違います。というか完全に別人です

 

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 ↑右と左はおんなじ人なんですよ!


 こういうことはキャラクターが固まっていない連載漫画の初期には良くあることとスルーもできますが、キャラクターを描く上で顔は最も重要なアイデンティティなので、明確に作者が何らかの意図を持って変えていった、ないしは変えざるを得なかったのだ、と私はあえて読みます。


 登場時のアシリパは眉毛がつり上がっていて、輪郭も鼻も三角形に近いシェイプ、つまり全体的に角張った、冷たい印象のある顔つきとして描かれています。
 一方で2、3巻くらいになるとかなり顔つきが穏やか、というか全体に縮んで子供っぽくなる。眉毛はほぼ水平、輪郭も鼻も丸みを帯びて、今の連載を見てもこのディティールの表現はそんなに変わっていません。キャラを描くのにこなれていったということを差し置いても、やはり彼女の心境の変化が顔に表れているのだと思います。2巻でアシリパのおじであるマカナックルが 

 「そんなことがあってからアシリパは笑顔を見せなくなったが、最近はずいぶん明るくなった」 

 こう述懐してます。「そんなこと」とは父であるウイルクとレタラとの別れを指しているわけですが、そのトラウマを杉元を通していやしたと捉えてもいい。ゴールデンカムイという物語を通して、アシリパの知識が杉元を導くという構成が取られることも多いのですが、逆に杉元を通して彼女は何かを取り戻したと考えられます。


 顔に傷を負った杉元にウイルクの面影を見た、失った父親の代理を見出したということかも知れません。ただ、杉元とアシリパの精神的な交流はすでに、ウイルクがアシリパに与えた知識の領域を飛び越え、その先へと至っていると私は思うのです。


 【2】断崖を飛び越える

 最近のインタビュー(https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1538581439)でアシリパ役を務められている白石晴香さんと杉元役の小林親弘さんの会話が、私には完全にアシリパと杉元のやりとりに見えて、すごく興味を引かれました。ちょっと引用しますと 

 ―「オソマおいしい」で一皮むけた感じも面白かったです。
 白石:あそこがアシリパさんの初めての面白いシーンでしたね。
 小林:そうだっけ?もっと前から面白いっていう印象が…。
 白石:そこまでは説明セリフが多かったので、面白い一面はあそこでパッと開いたんじゃないかなと思います。
 小林:じゃあ、あれが目覚めの瞬間だったんですね!?

 この会話から滲み出るのは、演じられている方だからこそ分かる、キャラクターが持つ繊細なニュアンスに対する感覚だと思うのです。アシリパはあそこでやっと心を開けたと思っている。それまでは自分の知っていることを一方的に説明するだけだったと。でも杉元はずっと面白い女の子だったと考えていた。この対比がフレッシュで、二人ともとても良い役者さんだなと思ったのです。


 二人の間には溝が存在していて(少なくともアシリパはそう感じていて)、桜鍋を食べるプロセスを通して、やっと二人の間にあった見えない断絶、つまり教える―教えられるという一方的な関係は解消されたとも言えるのではないでしょうか。すなわち、彼女は学ぶ立場に立ったのです。


 私は白石さんと小林さんのやりとりで、アシリパの顔の変化はここに起因すると捉えられると思い直した。知識を教える指導者という一歩引いた立場から、家族という同じ共同体の成員になった、そういう表現なのだと思います。

 

 それが端的に表されているのは、鹿狩りのシーン、二甁編の導入となっている部分です。このエピソードは二人の間の溝を如実に描き出しています。3巻で杉元は鹿に感情移入してしまう。

 「このまま鹿を逃がしたら無駄に苦しい思いをさせただけだ。必ず仕留めてあげなくては」
 「傷を負いながら懸命に生きようとするこいつに睨まれたら…。動けなかった。こいつは俺だ…」

 ここで彼が戦場で負った心の傷、不死身の杉元ではない、弱い彼自身が明らかになるわけですが、逆にこれまで教える立場にあったアシリパはこの傷に、弱さに気付いていなかった。そして「肝臓や肉の味が落ちても脳みそや目玉はおいしく食べられるから、そんなに心配するな」と杉元には見当外れな慰めを言ってしまう。これはユーモラスなコントにも見えますが、彼女たちの間に決定的な断絶が存在しているということを示しているシーンでもある。彼らが生きてきた世界は全く異なるのです。


 アシリパは杉元の「こいつは俺だ」発言を聞いてようやくその断絶に、杉元が生き抜いた戦場の恐ろしさに気付かされた。彼女は彼にこう諭します。 

 「鹿は死んで杉元を暖めた。鹿の体温がお前に移ってお前を生かす、私達や動物達が肉を食べ、残りは木や草や大地の生命に置き換わる。鹿が生き抜いた価値は消えたりしない」

 これは、よくよく聞くと杉元にとって何の慰めにもなっていない。だって結局鹿は死んじゃうわけですから、杉元がこだわっていた「個」としての自己の生存というテーマに対しては何の答えにもなっていない。だからすごく不器用な言葉なんです。死んだけど誰かの役に立ったなんて、今もしツイッターとかSNSでこんな追悼の辞を口にしようものなら、たちどころに炎上してしまいますよね。


 アシリパはむしろ自分たちの生きている世界はこうなんだ、生命は循環するのだ、という杉元にとっては酷薄にも聞こえるだろう「個」のない世界観を説きます。でも、これは彼女にできる精一杯の慰めなのです。だって杉元の傷について、そして杉元の生きている世界についてアシリパは何も知らない。だからこそ、彼女は下手な癒やしを与えず、自分自身の生きている世界を杉元にさらけ出すことを選んだ


 杉元は彼女の言葉の内容だけではなく、二人の生きている世界の間にある、深い、そして見えざる断崖に飛び出したアシリパに感嘆する。身を投げ出す彼女を受けとめなければならないと感じたからこそ、彼女の発言を受け入れる、そう私は捉えます。この瞬間において、教える―教えられるという非対称な関係性が解消される。対等な立場で話し合える家族として二人の関係が構築されたのだと思います。


 その後の杉元とアシリパのやりとりも、二人の間の溝を考えると感慨深いものがあります。

 「もし俺が死んだら、アシリパさんだけは俺を忘れないでいてくれるかい?」
 「ヒンッ!!死ぬな杉元!!」

 
 完全に二人の世界観が入れ替わっているのがおわかりいただけるでしょう。杉元はアシリパの説くエコロジー的な生命の循環を完全に受け入れ、自分が死んでもその価値が彼女の中に生きれば良いと確信している。でもその価値観を彼に教えたはずのアシリパは「個」としての杉元に生きていてほしいとすでに望んでしまっているのです。


 杉元もアシリパも互いに違う世界の人間であることを確かめ合い、断絶を認め、そしてその溝を飛び越え受けとめた、二人の心の交流を描いた印象的なシーンだったと思います。 

 


 【3】アシリパの「猟師の魂」
 

 アシリパの説く生命の循環を軸とする世界観は、同じく3巻の二甁の言葉にも重なります。

 「山でに死にたいから脱獄した。勝負の果てに獣たちが俺の体を食い荒らし、糞となってバラ蒔かれ山の一部となる。理想的な最後だ」

 荒っぽい言葉ではありますが、これはアシリパの説く「鹿が生き抜いた価値は消えたりしない」のリフレインです。ただ二甁の場合は、「猟師の魂」への固執から、この言葉が導き出されます。


 二甁の「猟師の魂」について、前稿(https://iggysan.hatenablog.com/entry/2018/10/08/010600?_ga=2.151640761.101970597.1538925000-1944750438.1538563874)で述べましたが、それはウイルクの皇帝暗殺と同様の反乱、昔からずっと続く民衆の専制国家に対する「乱」の精神であるという見解を私は抱いています。二甁もウイルクも「猟師の魂」という自然に生きる者のプライド、そして自分たちを抑圧する権力への闘争の動機を見いだしていたという点で共通している、というのがかいつまんだ結論です。

 

 アシリパにもその片鱗は見られる。たとえば1巻の「弱い奴は食われる」発言です。
 

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 言い換えると自分は食われない、すなわち強いということです。明らかに猟師としての自分への自負、闘争の気骨が見え隠れする言葉ですし、ウイルクの教え、ウイルクの「猟師の魂」がどういうものだったかを如実に表しているとも言えます。


 14巻で回想されるウイルクによる狩りの指導は、優しいお父さんの顔に隠れてしまいますが、普通に考えればあり得ないほどのスパルタ教育です。凶暴な猛獣の前に娘を投げ出すようなことをするでしょうか?。いざとなればウイルクが助けるにせよ、彼女の心に深い傷を負わせるような真似をあえてする、まともな神経ではできません。

 「アシリパは山で潜伏し戦えるよう…育てた。私の娘は…アイヌを導く存在…」 

 彼の指導方針は明白です。彼女を「乱」の主導者に足るパーソナリティに育成しようとしていたわけです。それはヒグマ狩りの回想からも分かります。 

 「おめでとうアシリパ。恐れず動きも正確だった」

 この賛辞は3巻で二甁が「ビビっておっ立っちゃ負けよ」と谷垣に(あるいは二甁自身に)語っていたことと完全に重なります。ビビる奴は弱い奴。だから彼女はビビらない、恐怖しない。「乱」を率いるものは、自らの死を恐れてはならない。二甁とウイルクの間で共有されていた「猟師の魂」にはこういう戦乱を率いるものの自己規律、ノブレスオブリージュ的な側面があったのではないか、そう私は読んでいます。


 冷徹な狩人、反乱の気風を知ってか知らずか、彼女は父の教えをきっちりと山の中でずっと保ち続けて暮らしていた。それが1巻で杉元と出会った硬い表情の少女で、山の中で獣の掟を破った盗人を追っていた二瓶と同じ峻厳な顔つきなのです。こうした人物像は、後の彼女からはイメージできない。13巻で彼女が杉元に吐露した胸の内からも明らかです。

 

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「全部アチャ(お父さん)が教えてくれた。山のこともアイヌのこともすべて…。杉元…、私は怖い。アイヌを殺して金塊を奪ったのっぺら坊が私の父だったらどうしよう…」 

  彼女はもはや、1巻で出てきた冷ややかな指導者ではない。精神的な支えである父の裏切りを恐れ、おびえる一人の人間です。その隠されていた自己に気付かせてくれたのが、まさしく杉元だったわけで、鹿も殺せない「情けないシサム」である杉元の中に自分が持っている本来の弱さを垣間見たのです。


 だからこそ、「弱い奴は食われる」という無慈悲な言葉を繰り返さず、「鹿が生き抜いた価値は消えたりしない」という言葉を選ぶ。これは杉元への慰めではなく、自分自身の弱さを認める発言だったとも捉えられます。父親の教えた「乱」としての「猟師の魂」に対する決別であり一つの賭け、自分の生きている世界と杉元の生きている世界をつなごうとする跳躍であったとも思えるのです


 
 【4】余録の余談

 ここからは余談ですが、こうして考えてみると、アシリパは一見して確固とした自己を持っている指導者のように見えますが、十代前半の年少者らしい気負いみたいなものも感じられてほほえましいところもあります。杉元にあーだこーだと山の知識を教える彼女の姿は、完全に年の離れた兄妹のありようです。


 杉元はアシリパを尊敬するだけではなく、かけがえのない家族として受けとめる。その居心地の良い空間が、読者がずっと付き合ってきたゴールデンカムイという物語の抱えるユートピアなのだと思います。


 谷垣とチカパシの間にも、明らかにこうした兄弟の絆があります。チカパシに対して指導的な立場に谷垣がいるわけではなく、チカパシを通して谷垣は「猟師の魂」を学び直す、ミノボッチをかぶってマタギの猟に付いていった自分を思い出す。


 「家族だから」とつぶやくチカパシを信じ、インカラマッを助ける。そこには他者と他者が、しがらみを飛び越えて結びつくというユートピア的な共同体が回復しているように思えてなりません。


 とりあえず、「猟師の魂」に対する読みは以上になります。この言葉にはアイヌの持っているエコロジーの考え方が最も重要な比重を持っているようにうかがえる。「天から役目なしに降ろされたものはひとつもない」という、単行本の折り返しに書かれてはいるけど物語の中では一度も語られない言葉こそが、二甁もウイルクもアシリパも持っていたはずの本来の「猟師の魂」なのだと思います。


 この側面こそ、アシリパが杉元に伝えたものだと私は感じるのですが、今の私の勉強量では言葉にできませんでした(あるいは言葉で語るべきものではないのかもしれません)。ここにこそ物語が収斂していくポイントがあるとだけお断りして、この稿を締めます。次こそ谷垣の「勃起」について語ります(やるやる詐欺)。お目通しいただき、ありがとうございました。(了)